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陸軍主計大佐・新庄健吉 ~日米開戦ヲ回避セヨ!~

8月は戦争について考える月です。今回は1941(昭和16)年の対米開戦をギリギリまで回避しようと戦った陸軍主計大佐・新庄健吉(しんじょうけんきち)についてお話します。



新庄健吉
新庄健吉
1897(明治30)生~1941(昭和16)


新庄健吉は、大日本帝国陸軍の情報将校です。軍人といっても「主計大佐」なので経理部署の所属です。彼の軍歴をざっと説明します。新庄は、1924(大正12)6月に陸軍経理学校高等科に入学し、卒業後に東京帝国大学経済学部商業科(現在の東京大学文科Ⅱ類)に入り、1928(昭和3)3月に卒業しました。さらに同大学院に進んで経営経済学を学び1930(昭和5)3月に修了し、同年4月から陸軍被服本廠の職員となり、翌年3月に陸軍省経理局の職員として主計課に勤務します。そして、ソヴィエト連邦駐在などを経て1940(昭和15)3月に主計大佐に昇進し、1941(昭和16)1月、陸軍参謀本部よりアメリカ出張を命じられました。


この時期の日米関係は最悪で、日本が日独伊三国軍事同盟を締結すると、アメリカは日米通商航海条約を破棄して対日石油全面禁輸を決め、さらにくず鉄対日全面禁輸など、いわゆるABCD包囲網(※アメリカ・イギリス・オランダ・中国による対日経済封鎖)による締め付けを行います。さらにアメリカはハル=ノートを提示し、日本に三国同盟の破棄と中国大陸からの撤兵を求めました

1940(昭和15)年のヨーロッパは、ナチス=ドイツがフランスを降伏させ、ヨーロッパでの戦いを優位に進めていました。イギリスは孤立無援の中、ドイツに屈することなく戦いを続けます。そしてアメリカに参戦と援助を求めていました。


第二次世界大戦参戦の口実を欲するアメリカ政府は、しきりに日本を挑発して日米開戦を誘導しました。当時のアメリカ世論は第二次世界大戦参戦に否定的だったからです。

泥沼化する日中戦争、国家総動員法による国力の低下、資源と戦力の不足、外交交渉の行き詰まり、ナチス=ドイツの快進撃……水面下で日米双方とも開戦を回避する努力をしながら、結局は戦争へと舵はきられていきました。 



日独伊三国軍事同盟
日独伊三国軍事同盟


さて、アメリカ行きを命じられた新庄は、横浜港から日本郵船の「龍田丸」でニューヨークに向かいます。この時、偶然乗船していた陸軍省軍務課の岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐は、のちに報告書を託す重要なキーパーソンとなります。

新庄のアメリカでの任務は、駐在武官のころと同じく諜報活動でした。諜報活動とは、小野寺信(おのでらまこと)大佐のときにも書きましたが各国の諜報員と接触して情報を得て、それを本国に伝えるいわゆるスパイです。死と隣り合わせの命懸けの任務を遂行するため、新庄は駐在武官府には出入りせず、三井物産社員という肩書で三井物産ニューヨーク支店内に籍を置いて収集を行いました。


アメリカの工業生産力や軍事力を徹底調査することになった新庄ですが、非合法な諜報活動はせず、新聞や雑誌・統計年鑑・官報などの公開情報を収集することに専念しました。そして、統計資料からアメリカの資源や資材の備蓄情報を計算し、戦車や軍艦などの生産予測や日米の国力差を数値化します。


新庄が算出した彼我の国力差は、重工業分野は日本1:アメリカ20、化学工業分野は日本1:アメリカ3。日米開戦した場合、半年以内に戦力差が逆転し、その後は手がつけられなくなるほどアメリカ戦力は巨大化すると結論づけ、同年8月、陸軍参謀本部に提出しました。

新庄は、当時日本ではほとんど見られなかったIBM社の統計機器を使用していたため、わずか3カ月で、日米の国力の開きは、鉄鋼日本1:アメリカ24、石油日本1:アメリカ無限大、石炭日本1:アメリカ12、電力日本1:アメリカ5、アルミニウム日本1:アメリカ8、航空機日本1:アメリカ8、自動車日本1:アメリカ50、船舶保有量日本1:アメリカ2、労働力日本1:アメリカ5であり、重工業に至っては日本1:アメリカ20になると分析したのです。


この報告書は、前述の岩畔豪雄大佐に託され、陸軍参謀本部を経て政府・大本営に届けられました。しかし、小野寺信大佐の時と同じくこれらの情報は、第三次近衛文麿(このえふみまろ)内閣、及び陸軍参謀本部に活かされることはありませんでした。

報告書が届いていたことは『大本営陸軍機密日誌』にも記されているので間違いありません。しかし、当時の陸軍省は親ドイツ反アメリカ色で固まっており、「親米的な意見は口にするな」という組織の秩序、序列が優先されました。国家と国民にとって不幸なことです。


新庄は、「日米開戦があれば必ず日本は敗れる」と高級軍人の会合の場でスピーチし、その場に居あわせた者を凍り付かせたこともあります。日米開戦を回避するために作成した情報が活かされなかったことに、「数字は嘘をつかないが、嘘が数字を作る」と言って悔しがったといいます。(古崎博の証言より)


さて、話を1941(昭和16)年10月に戻します。
この頃、働き詰めだった新庄は体調を崩し、ワシントンのジョージタウン大学病院に入院しました。そして、同年12月4日、急性肺炎を併発し、44歳の若さで急死しました。

日米開戦回避という彼の遺志も空しく、その4日後に日本は対米英蘭開戦に踏み切りました。帝国海軍はハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、帝国陸軍はマレー半島に奇襲上陸。日中戦争と合わせて太平洋戦争(※当時は大東亜戦争と呼称)の始まりです。それは皮肉にも新庄の葬儀と同じ日でした。


日本は戦争に必要な物資を南方(※東南アジア)に求め、総力をあげて南方攻略を行います。そのためソロモン諸島で海と陸の消耗戦を強いられ、少ない資源をさらにすり減らすことになりました。また、南方に優秀な戦力を次々と投入したため、満州や本土の戦力が手薄となり、さらに新庄の危惧したとおり、日米の国力差から、開戦以降で彼我の軍事力は絶望的なほど開いてしまい、ついに絶対国防圏(※サイパン島など、死守しなければならないと決めた島や拠点)への侵攻を許し、日本はB29の猛火に晒されました…。


終戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本を間接統治した際、アメリカの調査団が陸軍省に保管されていた新庄健吉の報告書を発見し、「こんな正確な情報があったのに、どうしてアメリカに宣戦布告したのか」と呆れ、その正確な分析に感嘆したといいます。

国内にいると世界情勢が見えず、ナショナリズムの高揚に政府や軍部も流されていくのでしょうか。海外の駐在武官は、客観的に祖国を見ることができるので、冷静な分析ができるのかもしれません。小野寺にしても新庄にしても、忸怩(じくじ)たる思いだったでしょう。


太平洋戦争開戦のギリギリまで開戦に反対していた主だった人物は4名。
戦争に反対していた
昭和天皇、ストックホルム駐在武官小野寺信(おのでらまこと)、陸軍主計将校新庄健吉、駐日アメリカ大使ジョセフ=グルー

ジョセフ=グルーについてはまたの機会にお話しようと思います。

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