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景徳院(山梨県甲州市)を訪問しました

天童山 景徳院(→山梨県甲州市大和町田野)は、戦国時代後期の1582(天正10)年3月11日に田野合戦に敗れて滅亡した武田勝頼公同夫人(北条夫人)武田信勝及び殉難した家臣一同の菩提を弔うため、本能寺の変後、甲斐国の争奪戦(→天正壬午の乱)に勝利した徳川家康が、武田旧臣の小幡景憲(おばたかげのり)を普請奉行に命じて建立した曹洞宗寺院です。武田勝頼公に殉じた小宮山友晴(こみやまともはる)の弟で僧侶の拈橋倀因(ねんきょうちょういん)が開山し、戒名をつけました。家康は景徳院建立に際して寺領75石と山林7里、及び茶湯山が与えています。なお、田野合戦の直後に田野に入ったのは大善寺の尼僧理慶尼(りけいに)で、武田軍将兵の遺骸を丹念に調査して身元を確認しています。

景徳院境内には武田勝頼公一族・家臣の墓所の他、侍女16人が投身自殺したという「姫ヶ淵」、武田勝頼公らの首級を織田方の将兵が洗ったと伝わる「首洗い池」、武田勝頼公・北条夫人・武田信勝が自害のために使ったとされる「生害石(しょうがいせき)などがあります。勝頼公らが実際に自害した場所は景徳院境内ではなく田野合戦の古戦場ですが、後世の人は、このような寂しい場所で自害し、これらの石にそれぞれの魂が籠っていると理解したのでしょう。切なくなります。なお、勝頼公一族の供養を依頼したのは武田氏を離反して徳川氏に臣従した穴山梅雪(ばいせつ)の正室見性院殿(→勝頼公の異母姉)でした。


最期を共にした武田一門
勝頼公の命令で別行動をとった武田信豊(→勝頼公の従兄弟)、松姫(→勝頼公の異母妹)、松姫が連れて八王子に避難した勝頼公の娘(→貞姫)・仁科信盛(→勝頼公の異母弟)の長男(→仁科信基)と娘(→督姫)を除くと、勝頼公と最期をともにした武田一族は、嫡男の武田信勝、武田逍遥軒信綱(→信玄の弟)の子で僧侶の大龍寺麟岳(りんがく)、女性では勝頼公の正室北条夫人(→北条氏康6女)、勝頼公の末の妹、京都で生まれた武田信虎(→勝頼公の祖父)の末娘のみとなります。北条夫人は勝頼公から再三にわたり故郷の小田原に落ち延びるよう説得されますが、彼女は頑なにこれを拒み、勝頼公と運命を共にすることを望みました。
『信長公記』には勝頼公の祖母「大方様」も加わっていますが、彼女は武田氏滅亡後に信濃で亡くなっていることが過去帳で明らかになっているため、新府城を退去する際に別ルートで避難させたのでしょう。勝頼公の優しさが伝わります。


織田信長の評価
『三河物語』によると、織田信長は勝頼公の首級と対面した際、「日本に隠(かくれ)なき弓取(ゆみとり)なれども、運が尽きさせ給ひて、かくならせ給ふ物かな」と述べたといいます。信長は勝頼公の武将としての資質を評価し、滅亡は「不運」と表現し、実力差とは考えていなかったようです。その信長もわずか3カ月後の本能寺の変で最期を遂げ、嫡孫三法師(→織田信忠の嫡男)・次男信雄(のぶかつ)を主として再建された織田政権は、家臣の羽柴秀吉の台頭で1年も持たずあっけなく空中分解しています。


【景徳院東門】
景徳院入口1

景徳院案内

景徳院入口追加2

景徳院入口追加1

景徳院入口2

景徳院入口3

景徳院入口4

景徳院入口5


【景徳院山門】
景徳院は2度の大火で多くが焼失した中、唯一山門だけが焼け残り、創建当時の面影をそのまま残しています。
景徳院山門追加

景徳院山門1

景徳院山門2

景徳院山門3

景徳院山門4

景徳院山門5


【甲将殿】
中には勝頼公・北条夫人・信勝の木像が安置されています。その他、勝頼公に殉じた土屋昌恒(つちやまさつね)・小宮山友晴(こみやまともはる)・跡部勝資(あとべかつすけ)ら忠臣の位牌や武田氏ゆかりの遺品などが保存されています。
甲将殿5

甲将殿1

甲将殿2

甲将殿4

甲将殿3
(武田勝頼公木像)


【景徳院本堂】
1588(天正18)年に本堂が完成した時には七堂伽藍を備えた大寺院でしたが、江戸時代後期の1845(弘化2)年と明治時代中期の1894(明治27)年に大火があり、伽藍の大部分が焼失しました。現在の本堂は昭和時代後期の1977(昭和52)年に再建されたものです。
景徳院本堂1

景徳院本堂2

景徳院本堂3

景徳院本堂4

景徳院本堂5

景徳院梵鐘


【旗堅松(はたたてまつ)】
本堂の左手前に伸びる大きな松は旗堅松と呼ばれ、滅亡の間際に武田勝頼公が甲斐武田氏累代の家宝である日の丸の御旗(みはた)をこの松の根本に立て、同じく家宝の楯無(たてなし)の鎧を嫡子信勝に着用させて元服式を執り行ったと伝わります。ただ、日の丸の御旗と楯無の鎧は勝頼公の命令で滅亡前に家臣の田辺佐左衛門尉(たなべすけざえもんのじょう)が隠し、それぞれ雲峰寺(→山梨県甲州市)と菅田神社(→山梨県甲州市)に安置されています。
また、『甲陽軍鑑』によると1579(天正7)年12月に武田信勝の元服式を行い、勝頼公は家督を信勝に譲り隠居(→形式的)していますので、ここで元服式を行ったという伝承は史実ではありません。
旗堅松


【武田勝頼公・北条夫人・武田信勝・殉難者の墓】
甲将殿の真後にあります。中央の宝篋印塔が武田勝頼公、右が北条夫人、左が武田信勝の墓です。さらに両脇にある石塔は最期を殉じた忠臣たちの供養塔です。2008(平成20)年~2009(平成21)年にかけて墓所の発掘調査が行われ、墓所に遺骨などはなく、5275点に及ぶ経石(→法華経が書かれた石)が納められていたことが判明しました。勝頼公夫妻が自害する直前に唱えたお経が法華経であったという記録と合致します。
勝頼公らの墓1

勝頼公らの墓2

勝頼公らの墓3

勝頼公らの墓4

勝頼公らの墓5

勝頼公らの墓6

勝頼公らの墓7

勝頼公らの墓8

勝頼公らの墓8

墓所追加


【没頭地蔵】
地元の伝承では勝頼公・北条夫人・信勝の遺骨が埋葬されていると伝わります。ここは発掘調査が行われていないため真偽の程は定かではありません。
没頭地蔵0

没頭地蔵1

没頭地蔵2

没頭地蔵4


【生害石】
武田勝頼公・北条夫人・武田信勝が自害の際に使用したと伝わる石です。ただ、勝頼公の家族が自害した場所は景徳院境内ではなく田野合戦の古戦場なので、これも後世の人の思慕の念が生んだ伝承だと思われます。後世の人は、このような寂しい場所で自害し、この石にそれぞれの魂が籠っていると理解したのでしょう。私も伝承だと分かっていても実際にこの場所に来ると、いつも合掌したい気持ちになり、長く手を合わせてしまいます。
生害石1

生害石2

生害石追加3

生害石3


生害石追加1

生害石5

北条夫人生害石

生害石6

生害石7


〖武田勝頼公(37歳)の辞世〗
(おぼろ)なる 月もほのかに雲かすみ 晴れて行へ(ゆくえ)の 西の山の端(は)
景徳院戒名: 景徳院殿頼山勝公大居士
法泉寺戒名: 法泉寺殿泰山安公大居士
妙心寺戒名: 玉山龍公大禅定門
武田勝頼公
(高野山成慶院所蔵)

〖北条夫人(19歳)の辞世〗
黒髪の 乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒(お)
景徳院戒名: 北条院殿模安妙相大定尼
法泉寺戒名: 陽林院殿華庵妙温大姉
高野山戒名: 桂林院殿本渓宗光
北条夫人肖像2
(高野山成慶院所蔵)

高野山に彼女の戒名があるのは、1周忌にあたる天正11(1583)年、異母兄の北条氏規(うじのり)によって、高野山高室院(→北条氏菩提所)で北条夫人の供養がされ、桂林院殿本渓宗光と法名が付されたからです。日牌供養で、奥之院に卵塔・石塔が建立されたと記録されますが、1590(天正18)年に北条氏が滅亡してしまい、現存はしていません。

〖武田信勝(16歳)の辞世〗
あだに見よ 誰も嵐の桜花(さくらばな) 咲き散るほどの 春の夜(よ)の夢
景徳院戒名: 法雲院殿甲厳勝信大居士 
法泉寺戒名: 良芳院殿春山華公大禅定門
妙心寺戒名: 春山華公大禅定門 
武田信勝
(高野山成慶院所蔵)

【辞世の碑】
辞世の碑追加

辞世の碑3

辞世の碑2

辞世の碑1

辞世の碑5


【姫ヶ淵】
侍女16人が四郎作古戦場から戻る際、恐ろしさに耐えかねて天険断崖の日川の淵に投身自殺をはかったと伝わる史跡です。ただ、『甲乱記』などの諸記録では侍女は北条夫人とともに自害していますので、これも伝承の域を越えないものと思われます。
姫ヶ淵追加

姫ヶ淵2

姫ヶ淵3

姫ヶ淵4


【日川(三日血川)】
土屋惣蔵昌恒が片手で敵兵を1000人斬って、日川の水が3日間敵兵の血で赤く染まったという伝承が残る史跡です。もちろんこれも伝承の域を越えません。日川の水量は現在はほとんどありませんが、1582(天正10)年3月頃はかなり豊富な川だったようです。武田軍はここを掘にして防御柵を築いています。
日川


【首洗い池】
織田軍の将兵が武田勝頼公・北条夫人・武田信勝らの首級を洗ったと伝わる池で、現在も湧き水が出ています。ただ、女性の北条夫人の首を取る必要はないので、これは誤伝でしょう。
首洗い池


勝頼公の不運とは
武田勝頼公は長篠合戦後に勢力を立て直し、信玄期よりも版図を拡げて武田氏の公権力も郷中に浸透させています。滅亡の直前にも北条氏の伊豆郡代笠原政晴(かさはらまさはる)が内通してきたほどです。しかし、勝頼公にとって致命傷になったのは長篠合戦でも御館の乱でもなく、1581(天正9)年の高天神城の陥落です。長篠合戦は信玄時代からの約束であることを石山本願寺に急かされて同盟国支援を目的としての出陣でした。徳川氏の内訌もあり『甲陽軍鑑』の虚飾をよそに山県昌景や馬場信房・内藤昌秀といった重臣層も長篠出陣に賛成しています。結果的に大敗したとはいえ、長篠合戦は打って出ての戦争でした。

それに対して「高天神崩れ」は、勝頼公が織田氏との和睦交渉の最中だったこともあり織田氏に忖度して、結果的に高天神城の救援に赴かなかったことが原因で、高天神城とその城兵(→武田領国中から動員された国衆)を見殺しにしたと受け止められました。これにより、勝頼公は戦国大名としての声望を失ったのです。

武田方国衆が武田氏に従っていたのは、戦国大名の「軍事的安全保障体制」の保護を得て、自家の存続を図ることが目的です。国衆の視点からすれば、自家を保護してくれる軍事力を失った勝頼公こそ、信頼を裏切った存在であり、国衆の援軍要請に応えず高天神城を見殺しにしたことは、織田信長の武田攻めの際に高遠城の仁科信盛(→勝頼公の異母弟)の奮戦を除いて抵抗らしい抵抗をせずに武田氏の諸城が自落する結果(→「甲州崩れ」)に直結しました。信長が勝頼公の滅亡を「不運」と評したのはこういう事情を見抜いていたからかもしれません。

そんな勝頼公を最期まで傍で支えていたのが19歳の正室北条夫人でした。実家の北条氏が武田氏と交戦することになっても小田原に戻らず、固い絆で結ばれていたこの夫婦を私は小学生の頃より歴史上最も尊敬し、敬愛しています。


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コメント

非公開コメント

めっちゃ分かりましたヾ(。>﹏<。)ノ゙

丁寧にご返信してくださり
ありがとうございますi-199
そういう事情だったんですねi-238
勝頼さんが北条に匿ってもらうことができない
理由とか、すごくよく分かりましたi-241

どの時代も詳しくてすごいですi-189
説明も分かりやすいですi-179

Re: いいですね(✽ ゚д゚ ✽)

>なおさん

コメントありがとうございます。
北条氏が勝頼公らを匿ってくれたら、と思いますよね。分かります。でも、その可能性はゼロだったと思われます。
少し難しい話になってしまいますが、北条氏との同盟を破棄したのは武田氏のほうからなのです。また、1580(天正8)年8月に北条氏政は家督を嫡男氏直に譲っています。織田・北条同盟の証として織田信長の娘が北条氏直に輿入れ(→結婚)する約束が交わされていて、武田・佐竹同盟に押され気味だった北条氏は織田氏との関係を強化することに必死でした。武田氏が滅亡した1582(天正10)年3月に北条氏政は三島大社に願文を捧げ、「信長公が一刻も早く約束通り氏直への輿入れを実現して欲しい。そうすれば北条氏と織田氏は入魂となり、氏直の関八州領有も実現される」と述べています。

つまり、北条氏にとって織田信長との関係強化が最優先課題であり、それに背くことなど考えてもいなかったのです。それを象徴するように北条氏は武田攻めの際に北条氏が占領した駿河(→静岡県)東部、上野(→群馬県)なども織田氏に献上して、武田攻めの恩賞をもらえなかったにも関わらず、信長の命令をそのまま受け入れています。北条氏は織田信長に逆らえば大変な目に遭うということを理解しており、もし、武田勝頼公や武田信勝が亡命を希望してきたとしても、それを受け入れれば織田氏への敵対、反逆とみなされます。

なので、北条氏政は妹の北条夫人は受け入れたかもしれませんが、武田一族を北条氏が受け入れることは絶対にありえなかったのです。松姫が八王子に避難したのも本能寺の変で織田信長が横死したのちのことだと思われます。北条夫人にしても、生きているうちはもちろん死後も勝頼公と一緒と述べてるほど勝頼公と固い絆で結ばれていましたので、自分だけ北条氏に助けてもらうという選択肢は考えてもいなかったはずです。勝頼公が小田原に戻るように説得した時も共に三途の川を手を取り合って渡ると即答しています。

Re: 愛が伝わります

>えまみさん

コメントありがとうございます。
歴史学の立場から本来は私的な感情を入れるべきではないのですが、武田勝頼公と北条夫人は大好きなんです。
これほど特定の歴史上人物に執着したことは後にも先にもないと思います。

結婚生活はわずか6年ほどでしたが、北条夫人の数少ない言動の記録から武田勝頼公の人間的な魅力を再発見できますし、
北条夫人自身にも魅了されます。

いいですね(✽ ゚д゚ ✽)

武田勝頼さん夫婦のことがすごくよく分かりましたi-237

勝頼さんは奥さんと一緒に北条氏に匿ってもらうことはできなかったのでしょうかi-182
奥さんのご実家でしたよねi-198
ごめんなさいって謝ってi-182

愛が伝わります

勝頼愛が伝わってきましたi-101i-88
親子ほどの年齢差ですが仲の良い夫婦だったのですねi-178i-189
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