将門塚(東京都千代田区)を訪問しました
将門塚(→東京都千代田区大手町)は、東京メトロの大手町駅から徒歩3分という一等地に立つ平将門(たいらのまさかど)の首塚と伝わる後世建てられた供養塔です。
平安時代前期に父の遺領問題で叔父の平国香(たいらのくにか)を殺害した平将門は、国司と在地領主の所領紛争の仲介をしたため、国衙(→国司の役所)の在庁官人(→役人)と争うようになり、これが朝廷への反逆と見なされたため、939(天慶2)年に平将門の乱を起こしました。
将門は常陸(→茨城県)・下野(→栃木県)・上野(→群馬県)の国府(→国衙所在地)を攻略し、新皇(→新しい天皇)と称して下総猿島(→茨城県猿島郡)を内裏(だいり→皇居)としましたが、940(天慶3)年に押領使(→叛徒鎮定の役職)の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)や父を将門に殺された平貞盛(たいらのさだもり)の軍勢よって討たれ、その首は京都の七条河原で晒されました。
その後、将門の首は家臣によって東国に持ち帰られ神田明神近くに埋葬されました。中世は「穢(けが)れ」の思想と「防疫」の観点から獄門(→さらし首)にかけられた首は関係者に返されて埋葬が許されるのが慣例でした。しかし、首塚は鎌倉時代の13世紀には荒廃し、どこにあったかも分からなくなったといいます。それゆえ現在の綺麗に整備されている将門塚に将門の首が葬られているという訳ではありません。
さて、平将門の乱から369年後の鎌倉時代後期に、神田明神周辺でたまたま自然災害が頻発しました。当時の人々は政治的に非業の死を遂げた人々は御霊(ごりょう)=怨霊(おんりょう)となり、それが疫病や地震・落雷・火災などを引き起こす原因と考えました。その一方、怨みを残して死んだ者の霊(怨霊・御霊)を神として祀ると逆にその加護や利益(りやく)を受けられるという逆転の発想が生まれました。これを御霊信仰(ごりょうしんこう)といいます。現代でも霊魂の存在を信じる人はいますが、中世から近世までは御霊信仰は普遍的なものでした。
神田周辺でたまたま頻発した自然災害でしたが、当時の人々は御霊信仰から「将門の神威(→いわゆる怨霊)」と恐れ、1309(延慶2)年に時宗(じしゅう)の遊行上人が将門を神として神田明神に合祀しました。
将門の首が胴体を求めて飛んできて大手町に落ちたとか、怨霊となって天変地異を起こしたとか、首塚を移転しようとした行政責任者が亡くなったとか、様々な怪伝説が生まれた将門ですが、そんな巷説を信じる人はよもやいないと信じたいものですが、「パワースポット」と名を変え御霊信仰は今でも残っているようです。
【将門塚】













【内務省跡】
将門塚の向かいのビルには明治時代の1873(明治6)年から昭和時代前期の1933(昭和8)年に霞が関に庁舎が移転するまで内務省が置かれていました。その説明板が建っています。初代内務卿(ないむきょう)は薩摩閥の大久保利通(おおくぼとしみち)です。内務省は殖産興業から府県知事の任免や警察行政までを一手に掌握した巨大官庁でした。戦後、GHQ(→連合国軍最高司令官総司令部)の命令で解体されました。

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↓↓平将門を祀る神田明神


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コメント
Re: おおふ
コメントありがとうございます。
於岩稲荷田宮神社のお岩さんが本当は良妻賢母の鑑であったように、「怨霊」話の多くは生前に慕われていた人が多いのが特徴です。慕われていたからこそ、生きていてほしい、さぞ無念だっただろうといった物語性が生まれるのだと思います。どこの誰かも分からない人の「怨霊」だと、「誰?」で終わってしまいますから。
2022-07-12 18:58 副会長 西住りほ URL 編集
おおふ
平将門の話
2022-07-12 12:46 なお URL 編集