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二・二六事件慰霊像(東京都渋谷区)を訪問しました

二・二六事件慰霊像(→東京都渋谷区宇田川町1丁目)は、1936(昭和11)年2月26日~29日に発生した二・二六事件の蹶起(けっき)に失敗し、特設軍法会議の結果銃殺(→罪状は叛乱罪)となった青年将校らを慰霊するため、事件から30年目の節目となる1965(昭和40)年2月26日に遺族会(→仏心会)が設置し、遺族・関係者700人ほどが参加して除幕式が行われました。*********************************〖二・二六事件〗1936(昭和11)年2月26日早暁、陸...

渋谷氷川神社(東京都渋谷区)を訪問しました

渋谷氷川神社(→東京都渋谷区東2丁目)は、古くは氷川大明神といい旧下渋谷村・豊沢村の総鎮守として崇敬されました。江戸時代初期の1605(慶長10)年に別当寺を務めた恵日山 薬王院 宝泉寺(→東京都渋谷区東2丁目)の100代住職貿園が記した『氷川大明神並(ならびに)宝泉寺縁起』によると、古墳時代前期(→4世紀)の景行天皇の時代、日本武尊(やまとたける)が東征(→東国平定)の際、この地に素戔嗚命(すさのおのみこと)を勧請し、その後、平...

豊栄稲荷神社(東京都渋谷区)を訪問しました

豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、鎌倉時代前期に渋谷高重が創建した田中稲荷社と、江戸時代に但馬豊岡藩(→外様大名京極氏)の下屋敷で祀られた豊沢稲荷社の2社を前身とする神社です。田中稲荷社はもともと現在の渋谷駅(→東京都渋谷区道玄坂1丁目)近くにあり、戦国時代の1524(大永4)年に北条氏綱と扇谷上杉朝興の合戦の際に被害を受け、江戸時代前期の1703(元禄16)年8月に再建されたようです。江戸時...

金王八幡宮(東京都渋谷区)を訪問しました

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、平安時代後期の1092(寛治6)年に渋谷氏の祖・河崎高家によって創建され、高家の子・渋谷重家はここを中心に居館(→「渋谷城」)を築き渋谷荘(しぶやのしょう→荘園)の経営を行いました。以来、金王八幡宮は渋谷氏の氏神として崇敬され、神仏習合の頃は、隣接する渋谷山 親王院 東福寺が別当寺として祭祀を司りました。縁起によると、渋谷重家には嫡子(→家督継承者)がなく金...

東福寺(東京都渋谷区)を訪問しました

渋谷山 新王院 東福寺(→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、平安時代後期の1173(承安3)年に源義家(→源頼義の嫡子)が開基、僧の円鎮が開山した天台宗寺院です。創建当初は「新王院」といい、鎌倉時代前期の1202(建仁2)年にこの地の地頭渋谷高重が住職の円証に帰依したことから「渋谷山 常照院 円証寺」に改められました。寺号が東福寺に改められたのは江戸時代に堂宇が再興されてからですが、ここでは全て「東福寺」で表記を統一します。109...

平尾杉山神社(東京都稲城市)を訪問しました

平尾杉山神社(→東京都稲城市平尾)は鶴見川流域に72社ある杉山神社のうちの1社で、その中でも最も上流域にあるといわれています。創建年代は不詳ですが、神仏習合の頃の戦国時代前期の1492(延徳4)年に社殿を再建し、神体として「武州児玉郡金屋村住人中村五郎衛門家吉敬白延徳二年五月五日」と刻された不動明王の懸仏(かけぼとけ→鏡面に付けられた神像や仏像)が奉納されました。しかし、この懸仏の神体は江戸時代末期の幕末期に失わ...

高勝寺(東京都稲城市)を訪問しました

岩船山 大智院 高勝寺(→東京都稲城市坂浜)は、胎蔵界大日如来像を本尊とする真言宗豊山派寺院で、南北朝時代後期の1368(応安元)年に僧の鎮海が開山しました。1368(応安元)年は数え年11歳の足利義満(あしかがよしみつ)が室町幕府の3代将軍に就任した年でもあります。江戸時代には本山・末寺の制により真言宗御室派の総本山・大内山 仁和寺(→京都府京都市右京区御室大内)の末寺となり幕藩体制の一翼を担う一方、高勝寺自身も末寺19ヶ...

北辰妙見宮(東京都稲城市)を訪問しました

神王山 北辰妙見宮(→東京都稲城市百村)は、隣接する天台宗寺院の神王山 観音院 妙見寺が別当寺を務める神仏習合の影響が色濃い神社で、妙見寺の山頂(→奥ノ院という)にあります。寺院という扱いなので祭神は本尊と呼ばれ、北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)が「妙見菩薩」(→仏像)として祀られています。江戸時代前期の1662(寛文2)年から行われ東京都の無形文化財に指定される「蛇より行事」については、昨日の妙見...

妙見寺(東京都稲城市)を訪問しました

神王山 観音院 妙見寺(→東京都稲城市百村)は、奈良時代後期の760(天平宝字4)年に47代淳仁天皇(→藤原仲麻呂政権)の勅願で創建された神王山 北辰妙見宮の祭祀を司る別当寺として、平安時代後期の1112(天永3)年に創建された天台宗寺院です。本尊は阿弥陀如来像です。妙見寺は、現在も境内山頂にある神王山 北辰妙見宮の行事を行うなど神仏習合が色濃く残り、江戸時代前期の1662(寛文2)年から行われている「蛇より行事」は、...

巣鴨プリズン跡(東京都豊島区)を訪問しました

12月中旬、サンシャインシティ文化会館ビル2階の展示ホールで開催された博覧会に行き、サンシャインビルに隣接する東池袋中央公園(→東京都豊島区東池袋3丁目)に立ち寄りました。公園の一角に巣鴨プリズン跡慰霊碑「永久平和を願って」という石碑があります。サンシャインシティと東池袋中央公園がある場所は、かつて巣鴨拘置所(→のちに東京拘置所と改称)が置かれていた場所です。戦時下の1944(昭和19)年11月7日には、1941(昭和16)...

威光寺(東京都稲城市)を訪問しました

草香山 小沢院 威光寺(→東京都稲城市矢野口)は1643(寛永20)年以前に創建された真言宗豊山派寺院で、1675(延宝3)年に穴澤天神社(→東京都稲城市矢野口)の別当寺となり祭祀を司りました。創建時の本堂は江戸時代中期の火災で焼失し、明治時代初期の1870(明治3)年に改築されました。威光寺は江戸時代の本山・末寺の制により真言宗豊山派寺院の岩船山 大智院 高勝寺(→東京都稲城市坂浜)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。威光寺...

妙覚寺(東京都稲城市)を訪問しました

雲騰山 妙覚寺(→東京都稲城市矢野口)は、室町時代に僧の陽雲が創建した臨済宗建長寺派寺院です。稲城市が設置した説明碑や寺伝によると室町時代後期に12代将軍足利義晴が開基したとありますが、足利義晴は前将軍足利義稙(よしたね)とその後見人である周防守護大内義興(よしおき)に京都を追われ征夷大将軍を解任され、近江守護の六角高頼を頼って落ち延び、同地で死去した波乱の人生を送った人物です。そのような人物が武蔵国の妙覚...

穴澤天神社(東京都稲城市)を訪問しました

穴澤天神社(→東京都稲城市矢野口)は、東京神社庁によると紀元前423(孝安天皇4)年の創建としていますが、まだ大和地方に大王(→現在の天皇)が出現していない弥生時代前期(→紀元前5世紀)にあたり、もちろん孝安天皇は実在の人物ではないため縁起の信憑性は薄く、創建年代は不明です。しかし、穴澤天神社は平安時代前期の927(延長5)年に編纂された『延喜式神名帳』に記載されている多磨郡8座のうちの1社と比定されているため、比定が正...

青渭神社(東京都調布市)を訪問しました

青渭神社(あおいじんじゃ→東京都調布市深大寺元町5丁目)は、平安時代中期の927(延長5)年に編纂された『延喜式神名帳』(えんぎしき じんみょうちょう)に記された武蔵国多磨郡八座の1つで、創建は900(昌泰3)年以前と言われています。境内掲示によると、この地を開拓した民衆や渡来人が生活に欠かせない水を尊び、祠を建て水神を祀ったのが興りで、祭神は水神の水波能売大神(みずはのめおおかみ)と青渭押比売命(あおいおしひめのみこ...

深大寺そばと深大寺について

深大寺のある深大寺元町は「深大寺そば」でも有名で、参道や門前には「深大寺そば」を提供する飲食店がずらりと軒を連ねています。江戸時代には深大寺城周辺の農家約300軒のうちほとんどが裏作でそばの実を栽培していたと記されています。深大寺そばの歴史については諸説ありますが、江戸時代に浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の庫裏の畑で栽培され、参拝者に蕎麦を供したのが始まりと伝わります。深大寺そば...
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