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恵明寺(長野県長野市松代町)を訪問しました

象山 恵明禅寺(→長野県長野市松代町西条)は、江戸時代前期の1677(延宝5)年に松代藩3代藩主・真田幸道が開基、明国から来日した黄檗宗2世木庵性瑫(もくあんしょうとう)が開山した黄檗宗(→臨済宗黄檗派)寺院です。一般的には恵明寺と呼ばれ、江戸時代には京都府宇治市にある黄檗山 万福寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。1825(文政8)年に火災に遭い、山門のみ火災を免れ今に至ると伝わります。境内には真田幸道の正室豊姫(→...

大英寺(長野県長野市松代町)を訪問しました

皓月山 大英寺(→長野県長野市松代町)は、江戸時代前期の1622(元和8)年に初代松代藩主真田信之が、妻の小松姫(稲姫→徳川家康養女、本多忠勝の娘)の菩提を弔うために創建した浄土宗寺院です。1620(元和6)年2月24日に死去した小松姫は上田の常福寺(→現在の芳泉寺)に祀られましたが、1622(元和8)年に信之が松代に移封されたため、小松姫の御霊屋も大英寺に移されました。山号は小松姫の戒名「大蓮院殿英誉皓月大禅定尼」から採ってい...

金刀比羅神社(長野県長野市松代町)を訪問しました

金刀比羅神社(ことひらじんじゃ→長野県長野市松代町豊栄字宮崎)は、創建年代等の詳細は不明ですが、長野県神社庁長野支部に属する宗教法人登録がされている神社です。長野支部によると江戸時代中期にはすでに「金刀比羅社」「金刀比羅大権現」として宮座の活動が確認できるそうです。北前船の寄港地である日本海側の各港には金刀比羅神社が多く見られますが、長野市内では千曲川やその支流沿いに多く見られます。水運の発達と同時...

旧松代藩鐘楼(長野県長野市松代町)を訪問しました

旧松代藩鐘楼(→長野県長野市松代町松代)は、初代松代藩主真田信之が1624(寛永元)年に火の見櫓とともに設置したのが始まりで、その後3度の火災で焼け落ち、現在の鐘楼は火の見櫓と別棟にした1801(享和元)年に再建されたものが母体となっています。2012(平成24)年に修復が施され、長野市の指定文化財(建造物)になりました。時計が広まっていなかった江戸時代、各藩では昼夜の別なく一刻(→約2時間)ごとに大鐘を突く決まりがあり、藩士...

松代駅(長野県長野市松代町)を訪問しました

松代駅(まつしろえき→長野県長野市松代町松代)は、1922(大正11)年6月10日~2012(平成24)4月1日まで使われていた長野電鉄屋代線(旧長野電鉄河東線)の廃駅です。屋代線は、屋代駅(→長野県千曲市)から松代駅を通り須坂駅(→長野県須坂市)とを結び、沿線で栄えた繊維産業を支える物流の大動脈を担う歴史ある鉄道路線でした。中でも松代駅は、戦時中に松代大本営建設のための貨物輸送に利用されたことでも知られています。松代駅は島式1...

大林寺(長野県長野市松代町)を訪問しました

寒松山 大林寺(だいりんじ→長野県長野市松代町)は、江戸時代初期の1622(元和8)年に上田藩主真田信之(9万5000石)が松代藩(13万石)に加増の形で移封された際に、信之・信繁兄弟の生母山手殿(寒松院)の菩提寺として創建した曹洞宗寺院です。1613(慶長18)年6月に上田で死去した山手殿は上田の大輪寺(だいりんじ→長野県上田市中央北1丁目)に埋葬されましたが、松代移封にともない信之は改めて大林寺を菩提寺として墓所を作り直しました...

典厩寺(長野県長野市)を訪問しました

「松操山(しょうぞうざん) 典厩寺(てんきゅうじ)」は、長野県長野市篠ノ井杵淵にある薬師如来を本尊とする曹洞宗寺院です。創建年代は不詳ながら戦国時代には「瑠璃光山 鶴巣寺(かくそうじ)」という禅刹で、周辺は第4次川中島合戦の舞台となった八幡原があります。戦国時代の1561(永禄4)年に行われた武田信玄と上杉謙信による第4次川中島合戦で、信玄の弟の武田典厩信繁(のぶしげ)が八幡原で討死したため、合戦後、信玄は弟・信繁...

善光寺と松代藩の関係

善光寺(長野県長野市)には江戸時代に善光寺外護職を務めていた松代藩重臣らの供養塔(「松代藩真田家供養塔」)があります。松代藩主真田氏は善光寺を信仰し、保護しました。現在も長野市松代町と善光寺の関係は続いており、7年に1度の善光寺御開帳の際には、本堂前に建てられる大回向柱の用材を松代町が寄進しています。「松代藩真田家供養塔」...

善光寺(長野県長野市)を訪問しました

善光寺(長野県長野市)は無宗派の単独寺院としては、日本最大級の歴史と由緒を誇る寺院です。無宗派といっても天台宗と浄土宗の僧侶たちが毎日お朝事を行っています。住職は「大勧進官主」と「大本願上人」の2名おり、日本最古といわれる「一光三尊阿弥陀如来像」が本尊(絶対秘仏)となります。7年に1度行われる御開帳は、秘仏ではなく鎌倉時代に造立された「前立本尊」(→重要文化財)という身代わり本尊で行っています。ただ、戦国...

梅翁院(長野県長野市松代町)を訪問しました

梅翁院(長野県長野市松代町)は曹洞宗の禅刹で、初代松代藩主真田信之の側室玉川右京とその両親を弔うために、江戸時代の1672(寛文12)年に3代藩主真田幸道の治世に建立されました。松代藩が鯉の養殖を奨励した名残が、観音堂にある「魚濫観音像」に見てとることができます。...

真田宝物館・文武学校・真田邸(長野県長野市松代町)を訪問しました

真田宝物館(長野県長野市松代町)は、松代真田氏の12代当主・真田幸治氏が1966(昭和41)年に松代藩及び藩主真田家に伝わる武具、馬具、調度品、書状、書画など5万点にも及ぶ大名道具を収蔵・展示する博物館です。宝物館は長野県松代高等学校を移転させ、その跡地を使って作られました。国の重要文化財に指定された「青江の大太刀」や、真田昌幸(→藩祖信之の父)所用の「昇梯子の具足」、武田信玄・勝頼父子・豊臣秀吉・石田三成・徳川...

お安と梅の観音跡(長野県長野市松代町)を訪問しました

「お安と梅の観音 」(長野県長野市松代町)とは、松代に伝わる民話で、現在の長野県松代高等学校の近くにある小高い塚の上に案内板が立てられています。かつてここには「梅の観音」と呼ばれる地元の信仰を集めた観音堂があったといい、往時を忍ばせています。ただし、歴史学の立場から源頼朝が善光寺に詣でた記録はないため、この民話も伝承の域をこえません。しかし、このような民話を地元で代々伝えつづけることは、地域の絆やコ...

明徳寺(長野県長野市松代町)を訪問しました

龍譚山明徳寺(長野県長野市松代町)は、南北朝時代の1390(北朝元号: 明徳元年)に建立された同町豊栄(とよさか)にある曹洞宗寺院です。本尊は鎌倉時代に造立された釈迦牟尼仏です。戦国時代にはこの地を制圧した武田信玄の家臣・春日虎綱(高坂弾正の名で知られる)が海津城代となり、厚く帰依しました。そのため、境内には春日虎綱の墓があります。江戸時代になると、1622(元和8)年に上田藩主・真田信之が関ケ原合戦の功績加増で13万...

長國寺(長野県長野市松代町)を訪問しました

真田山阿 長國寺(しんでんざんちょうこくじ→長野県長野市松代町)は、松代藩主真田家の菩提寺として歴史ある曹洞宗寺院です。戦国時代の1547(天文16)年に、武田信玄の家臣であった真田幸綱(→いわゆる真田幸隆)が、僧の伝為晃運(でんいこううん)に開山させ、真田一族の菩提寺として真田荘松尾に「真田山 長谷寺(しんでんざんちょうこくじ)」として建立したのが全身です。1600(慶長5)年9月の関ケ原合戦に際し、真田信幸(→関ケ原合戦後...

上田城(長野県上田市)を訪問しました

上田城(→長野県上田市)は戦国時代後期の1583(天正13)年に徳川家康が越後の上杉景勝に備えるために築城した平城です。城ごと徳川氏から離反した真田昌幸が徳川家康を撃退した1583(天正13)年の第1次上田合戦と、石田三成側の西軍に与した真田昌幸が関ケ原に向かう徳川軍(→東軍)本隊を率いる徳川秀忠(→家康の後継者)を撃退した1600(慶長5)年の第2次上田合戦の舞台としても有名な城です。そのため、上田市=真田の町、という印象を強く...
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