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物見塚古墳(神奈川県小田原市)を訪問しました

物見塚古墳(神奈川県小田原市曽我)は、古墳時代後期の6世紀後半に造られた円墳です。墳丘は残っていませんが、発掘調査の結果、横穴式石室の床面河原石敷きや、鉄鏃・金環・刀子などの副葬品(→被葬者の棺に入れるもの)が出土しました。物見塚古墳の裏手には曽我兄弟仇討に関する曽我一族郎党の供養御堂があります。...

千代寺院跡(神奈川県小田原市)を訪問しました

千代寺院跡(神奈川県小田原市千代)は、飛鳥時代末期~奈良時代初期にあたる8世紀初頭に地元の豪族によって建立された千代寺の跡地(→千代廃寺)です。千代寺は平安時代の9世紀前半に修復されたのち、10世紀前半まで存続したと考えられています。発掘調査の結果、厨房を意味する「厨(くりや)」を意味する墨書土器や、木簡2点が出土しました。また、建物の基礎(→基壇)跡の検出により、伽藍配置は法隆寺式で会った可能性が指摘されてい...

大神塚古墳(神奈川県寒川町)を訪問しました

大神塚古墳(神奈川県高座郡寒川町)は、古墳時代初期の4世紀後半に造られた前方後円墳で、地元では初代相武国造(そうぶくにのみやつこ)の茅部彦命(かやたけひこのみこと)の墓と伝わっています。ただし、前方部は削平を受けているため古墳形状の詳細は明らかになっていません。 〖形状・規模〗・墳丘長: 約51ⅿ・後円部直径: 約37.5ⅿ・後円部高さ: 約5ⅿ〖埋葬施設〗・木棺直葬(または粘土槨) ※石室はなし〖副葬品〗・銅鏡、直刀、...

安楽寺(神奈川県寒川町)を訪問しました

安楽寺(神奈川県高座郡寒川町)は高野山真言宗の寺院で、奈良時代の718(養老2)年に開基されたと伝わる古刹で、相模国一宮(いちのみや)である寒川神社の別当寺として創建されました。寒川町では最も古い寺院となります。現在は高野山御室院の末寺に属します。本尊は平安時代に造られた高さ101.5cmの大日如来坐像です。大日如来は真言密教の教主ともいえる仏です。境内裏手には古墳時代前期の4世紀後半に造られた大神塚古墳(→前方後円...

中里遺跡(神奈川県小田原市)を訪問しました

中里遺跡(神奈川県小田原市中里)は、弥生時代の集落遺跡跡です。関東地方の弥生遺跡としては最初期のものとして注目されています。ショッピングセンター建設を前に行われた発掘調査で、竪穴住居跡102軒、掘立柱建物跡73軒、方形周溝墓(→近畿地方以東に多い)などが発見されました。出土した弥生土器は、須和田式(中里式とも)が多い中で、兵庫県周辺でしか発見されていない土器がみられたことから、近畿方面からの入植者と在来の住民...

高来神社(神奈川県大磯町)を訪問しました

高来神社(神奈川県中郡大磯町)は、高麗(こま)の地にあるため長らく高麗(こま)寺・高麗(こま)神社とも呼ばれてきた旧郷社です。創建年代は不詳ですが、地元には神武天皇の時代の創建とする記録もあるといいます。さすがに誤伝でしょうが、飛鳥時代の668年に唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍によって滅ぼされた高句麗(こうくり)からの渡来人は、大和政権によって旧高句麗王族若光とともに相模国大磯に移住し、東国の開拓に従事したと伝...

川匂神社(神奈川県二宮町)を訪問しました

川匂(かわわ)神社は、神奈川県中郡二宮町にある神社で、平安時代の927(延長5)年に創建された『延喜式神名帳』(→要は格式が高いとされる)に記載されている相模国の式内社13社の一つです。二宮町にあるため地元では「二宮大明神」などとも呼ばれているようです。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の「建久三年八月九日条」(→1192年8月9日の記録)には、『将軍源頼朝が御台所の北条政子の安産を「二宮河匂大明神」に祈願し、神馬を奉納した』と...

国宝茶室「如庵跡」(神奈川県中郡大磯町)を訪問しました

茶室「如庵(じょあん)」は、戦国時代に流行した茶の湯の創成期に織田信長の弟・織田有楽斎(うらくさい)が草案した茶室です。有楽斎は茶の湯を大成させた桃山文化を代表する千利休(せんのりきゅう)の門下です。茶室「如庵」は、江戸時代初期の1618(元和4)年に京都の臨済宗寺院建仁寺(→京都五山第三位)の塔頭正伝院に建造されました。有楽斎死後も正伝院が所有していましたが、明治時代後期の1909(明治42)年に東京の三井邸内に移築さ...

曽我兄弟の仇討ち・城前寺(神奈川県小田原市)を訪問しました

稲荷山 城前寺(神奈川県小田原市曽我谷津)は、正式には「稲荷山 祐信院 城前寺」という浄土宗寺院です。鎌倉時代の1193(建久4)年に富士山の裾野で父の仇である工藤祐経(すけつね)を討った曽我兄弟の菩提寺としても知られています。確かな創建年代は不明ですが、曽我兄弟の叔父・宇佐美禅寺が兄弟の菩提を弔うために庵を建立したのが始まりだといいます。本堂の裏手には曽我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)兄弟、養父の曽我...

越の山横穴墓群(神奈川県寒川町)を訪問しました

越の山横穴墓群(神奈川県高座郡寒川町)は、相模川の支流の目久尻川と小出川に挟まれた武蔵野台地の中にある標高13ⅿ前後の遺跡です。発掘調査の結果、古墳時代後期の7世紀に造られた9基の横穴墓と、勾玉(まがたま)・直刀などの副葬品、人骨などが発見されました。...

岩殿城(山梨県大月市)を訪問しました

岩殿城(→山梨県大月市賑岡町)は、戦国時代に独自の家中を形成し、武田氏の権力も及ばない自治権を持っていた甲斐国都留郡の国衆小山田氏の出城の1つであり、1582(天正10)年3月3日に武田勝頼公が在城68日で新府城(→山梨県韮崎市)を自落(→敵に利用されないように自ら火を放つ)させて小山田信茂(おやまだのぶしげ)の提言に従い岩殿城を目指したことでも知られています。小山田氏はもともと北条氏に従属していた時期もあり、武田氏とは...

景徳院(山梨県甲州市)でお参りしました

今日は3月11日です。戦国時代の1582(天正10)年3月11日に私が日本の歴史上で最も敬愛している武田勝頼公・北条夫人夫妻らが自害し、戦国大名としての甲斐武田氏が滅亡した日です。「戦国大名としての」とつけたのは武田一族は現在に至るまで、武田宗家、河窪武田家、仁科武田家、米沢武田家、武田勝頼公四男を祖とする武田家など、それなりに残っているからです。しかし、領主としての甲斐武田氏はこの日に滅亡し、大名として復帰す...

満福寺(山梨県韮崎市)を訪問しました

大龍山 満福寺(→山梨県韮崎市穴山町)は穴山武田氏(→穴山信君らが有名)の菩提寺としても知られる曹洞宗寺院です。戦国時代前期の1501(文亀2)年に穴山武田氏の当主穴山信縣(のぶとお)が衰退していた寺を中興しました。本堂の裏山には「穴山氏の墓」があります。穴山氏(→穴山武田氏とも)は、南北朝時代に甲斐武田氏の当主ですが甲斐ではなく安芸国守護武田信武の子武田義武が分家した家で、武田氏の御一門衆筆頭として勢力を伸ばして...
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