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下総国分尼寺跡(千葉県市川市)を訪問しました

国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)は、奈良時代の741(天平13)年に聖武天皇が発した「国分寺建立の詔(みことのり)」によって、全国に建立された官営の寺院です。国分寺は男寺、国分尼寺は女寺です。国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」といい、高校日本史で学習します。下総国分尼寺跡は、下総国分寺(→綺麗に復元されている)の北西側500ⅿの同じ台地上に所在しており、かつては東側にあった国分寺を「東寺(とうじ)」、西...

里見公園と夜泣き石(千葉県市川市)を訪問しました

里見公園(千葉県市川市国府台)にある市川市が管理する公園です。戦国時代にはこの小山に国府台城(こうのだいじょう)が築かれており、小田原北条氏と主に房総里見氏の間で、1538(天文7)年、1564(永禄6)年、1565(永禄7)年の3度にわたって国府台合戦が行われています。公園の北半分には明戸古墳石棺があり、その近くには国府台合戦の伝説を伝える「夜泣き石」や「里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑」が残されています。案内板の説明や...

明戸古墳石棺(千葉県市川市)を訪問しました

明戸古墳石棺(千葉県市川市国府台)は、市川市が管理する里見公園の中にあります。この場所は戦国時代には国府台城(こうのだいじょう)が置かれ、小田原北条氏と主に房総里見氏の間で、1538(天文7)年、1564(永禄6)年、1565(永禄7)年の3度にわたって国府台合戦が行われました。明戸古墳は古墳時代後期の6世紀後半に造られた前方後円墳で、現在は箱式石棺2基が露出した状態となっています。〖形状・規模〗前方後円墳・全長: 40ⅿ・それ...

国府神社(千葉県市川市)を訪問しました

国府神社(千葉県市川市)は、平安時代の1087(永保7)年2月に創建された神社です。奈良時代に編纂された『古事記』の中には日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定に関するファンタジーがいくつも出てきますが、千葉県は木更津市や袖ケ浦市の由来など、そこかしこに伝承があります。神社がもともとあった国府台(このだい)も例にもれず、東国平定の際に市川側の台地から武蔵国側に、大河(→旧江戸川か)を渡河する場所が見つからず困...

法皇塚古墳(千葉県市川市)を訪問しました

法皇塚古墳(千葉県市川市国府台)は東京医科歯科大学の構内にある古墳で、古墳時代中期の6世紀に造られた前方後円墳で、弘法寺古墳・丸山古墳・明戸古墳など国府台にある古墳群の中では最大規模を誇ります。〖法皇塚古墳〗 前方後円墳・全長63ⅿ・後円部径: 32ⅿ・横穴式石室・太刀、ガラス器、金製・銀製装飾具、形象埴輪(男性・家形)などが出土...

真間万葉顕彰碑(千葉県市川市)を訪問しました

奈良時代に編纂された最古の和歌集である『万葉集』には、真間の手児奈(てこな)の悲話を詠んだ山部赤人(やまべのあかひと)や高橋虫麻呂の和歌をはじめ、真間(千葉県市川市)の地を詠んだ和歌が9首載せられています。「真間万葉顕彰碑」は、そのうちの3首について、それぞれのゆかりの場所に立てられたものです。〖真間井〗(亀井院門前)「勝鹿の真間の井を見れば 立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂)※真間の井とは亀井...

下総国総社・六所神社(千葉県市川市)を訪問しました

六所神社(千葉県市川市須和田)は、4世紀頃に在位した景行天皇の勅命によって6柱の神々を祭って創建したとされる非常に古い神社で、のちに下総国総社となりました。もともとは下総国府(現在の国府台公園)にありましたが、1886(明治19)年に境内が軍用地として接収されたため、現在地に移ったようです。...

須和田遺跡(千葉県市川市)を訪問しました

須和田遺跡(千葉県市川市須和田)は、須和田台に所在する旧石器時代から平安時代までの複合遺跡です。1933(昭和8)年から1935(昭和10)年にかけて明治大学の杉原荘介らによって発掘調査が行われ、弥生時代中期の弥生土器が数十点出土しました。これらは、のちに南関東最初の弥生土器「須和田式土器」として型式化されました。さらに、高度経済成長期の1967(昭和42)年には、甕形(かめがた)土器の実態も明らかにされました。しかし、現...
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