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専念寺(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

亀甲山 本覚院 専念寺(→神奈川県横浜市港北区新羽町)は、安土桃山時代末期の1601(慶長6)年に新羽村の村民良太郎の先祖清太郎が開基し、僧の耕公が開山したと伝わる浄土宗寺院です。清太郎は、小田原北条氏の旧臣で1590(天正18)年の北条氏滅亡とともに帰農した村の有力者と比定されています。江戸時代の専念寺は、本山・末寺の制により近隣の浄土宗寺院の中本字格である松亀山 本覚院 泉谷寺(→神奈川県横浜市港北区小机町)の末寺と...

善教寺(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

平等山 星谷院 善教寺(→神奈川県横浜市港北区新羽町)は、戦国時代前期の1492(明応9)年に死去した僧の慈海が池辺村星谷(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)に開基した瑠璃光山の山号を称した天台宗寺院が寺の起こりと伝わります。その後現在地に移転し、江戸時代前期の1612(慶長17)年に浄土真宗に改宗して西本願寺派に属しました。浄土真宗改宗時に山号と院号を平等山星谷院に改めたようです。寺の縁起には、戦国時代には小田原北条氏4代...

西方寺(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

補陀洛山 安養院 西方寺(→神奈川県横浜市港北区新羽町)は鎌倉時代初期の1190(建久5)年に、東大寺別当の勝賢僧正が現在の霊鷲山 感応院 極楽寺(→神奈川県鎌倉市極楽寺1丁目)の場所に開山した真言宗単立寺院です。1219(承久元)年に北条重時(→北条義時の3男)が極楽寺を中興開基すると西方寺堂宇は極楽寺境内に移されたようです。極楽寺・西方寺は1333(元弘3)年5月の鎌倉幕府(北条氏)滅亡後も鎌倉公方足利氏及び関東管領上杉氏に保護さ...

新羽杉山神社(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました

新羽杉山神社(→神奈川県横浜市港北区新羽町)は平安時代の延喜式神明帳に記載されている「武蔵国都筑郡杉山神社」に比定される神社の1つで、創建の詳細は不明ながら、この辺りが「上古根古屋の庄荷場の郷」と呼ばれる水郷だった景行天皇(古墳時代前期→12代天皇)の時代に、日本武尊(やまたとたけるのみこと)がこの地方を通過し、彼が死去したのち、村民がその遺徳を偲んで祠を建てたことが始まりとされます。江戸時代には補陀洛山 安...

龍雲寺(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました

幡森山 龍雲寺(→神奈川県横浜市都筑区東方町)は安土桃山時代後期に養蓮社順誉という僧よって開山された浄土宗寺院です。本堂の創建自体は戦国時代中期の1550(弘治元)年にされたようです。江戸時代には本山・末寺の制により松亀山 本覚院 泉谷寺(→神奈川県横浜市港北区小机町)の末寺でした。1今はありませんが、神仏習合の江戸時代までは境内に八幡社があったと記されています。龍雲寺は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『...

東方天満宮(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました

東方天満宮(→神奈川県横浜市都筑区)は、創建年代は不明ですがもとは字天神山(→神奈川県横浜市泉区字天神山)にあった社(やしろ)を安土桃山時代に現在地に移したと記されています。神仏習合の江戸時代には天神社と呼ばれ、高野山真言宗の高貴山 福聚院 正覚寺(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)が別当寺として祭祀を司っていました。明治時代末期の一村一社政策を受け、1909(明治42)年に近隣の八幡社・神明社・愛宕社・御嶽社・稲荷社と...

ごはん塚(神奈川県横浜市緑区)を訪問しました

ごはん塚(→神奈川県横浜市緑区鴨居7丁目)は、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の御家人で「板東武士の鑑」と評された畠山重忠の郎党に関する史跡です。二俣川合戦で畠山重忠が幕府軍(北条軍)の愛甲季隆の放った矢によって討死すると、畠山氏の郎党や下人の何人かは戦場を離脱しましたが、幕府軍による残党狩りにより鴨居(→神奈川県横浜市緑区)で討ち取られた者がいたようで...

駕籠塚(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました

駕籠塚(かごづか→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町2丁目)は、1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の功臣・畠山重忠の内室・菊の前(→足立遠元の娘)の墓所と伝わる史跡です。二俣川合戦の報を聞いた菊の前は駕籠(かご)に乗り二俣川の陣に駆けつけますが、すでに合戦は終わっており、幕府軍(北条軍)の愛甲季隆が放った矢により重忠が討死したことを知った菊の前は自害したといいます。「駕籠塚」の...

薬王寺・六ツ塚(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました

東隆山 薬王寺(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町2丁目)は、1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の御家人で「板東武士の鑑」と評された畠山重忠とその郎党130名余を埋葬したと伝わる「六ツ塚」が境内に残る曹洞宗寺院です。僧の北潭が開基し、創建時は東光山と称していたようです。毎年6月22日には境内の「重忠公霊堂」で滅亡した畠山重忠主従の供養が行われます。畠山重忠の乱(NHK大河ドラマ「...

畠山重忠公首塚・畠山重忠公遺烈碑(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました

畠山重忠公首塚(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰1丁目)は、1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉時代前期の御家人畠山重忠(はたけやましげただ)の首が葬られたと伝わる史跡です。以前は南を向いていたようですが、現在は極楽浄土の方角とされる西向きに建っています。畠山重忠公遺烈碑及び畠山地蔵尊(→神奈川県横浜市旭区万騎が原)は明治時代中期の1892(明治25)年に有志57人によって建立された畠山重忠の供養...

首洗い井戸・鎧の渡し・さかさ矢竹(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました

首洗い井戸・鎧の渡し・さかさ矢竹(→神奈川県横浜市旭区)は」、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の忠臣で「板東(ばんどう)武士の鑑(かがみ)」と評された畠山重忠にまつわる史跡です。畠山重忠の乱(NHK大河ドラマ「鎌倉殿と13人」/画像提供:NHK)「さかさ矢竹」は畠山重忠が地面に矢を2本刺したところ後日そこから竹が生えたという伝説が残る場所で、「首洗い井戸」は討ち...

畠山重忠古戦場跡(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました

畠山重忠古戦場跡(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町)は、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の功臣・畠山重忠(はたけやましげただ)にまつわる史跡で、周辺には畠山重忠の乱(二俣川合戦)にまつわる史跡が点在します。中には「さかさ矢竹」や「すずり石水跡」のような後世の創作と思われる史跡もありますが、「板東(ばんどう)武士の鑑(かがみ)」と評された畠山重忠を偲ぶ先人達の...

源東院(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました

日耀山 源東院 西光寺(→神奈川県横浜市都筑区東方町)は安土桃山時代に僧の円誉が開山したと伝わる浄土宗寺院です。江戸時代の本山・末寺の制では松亀山 本覚院 泉谷寺(→神奈川県横浜市港北区小机町)の末寺でした。源東院のある都筑郡東方村は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺の1つである三縁山 広度院 増上寺(→東京都港区芝公園4丁目)の寺領だったこともあり、源東院の寺紋は「徳川四天王」として知られる本多氏の家紋「丸に立ち葵...

真照寺(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました

澤水山 清龍院 真照寺(→神奈川県横浜市都筑区折本町)は戦国時代中期に中興開基された浄土真宗大谷派寺院です。創建時は真言宗寺院だったようですが、中興の際に浄土真宗に改宗したようです。江戸時代前期の1649(慶安2)年には江戸幕府(→3代将軍徳川家光の時代)から寺領を拝領されています。真照寺は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡折本村の条に次のように記されています。********************...

長福寺(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました

久松山 長福寺(→神奈川県横浜市都筑区仲町台4丁目)は、戦国時代中期に僧の自山応大が開山した曹洞宗寺院です。長福寺は平安時代前期に平将門が創建したと伝わる熊野社の別当を勤めていたことから、江戸時代には江戸幕府(→3代将軍徳川家光の時代)から熊野社領として社領5石余を拝領しています。戦国時代には小田原北条氏の家臣である師岡山城守が伽藍を修復しようとしたものの果たせなかったようです。長福寺は江戸時代後期の1830(...
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