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祇園寺(東京都調布市)を訪問しました(2)

一昨日に続き、虎柏山 日光院 祇園寺(→東京都調布市須佐町2丁目)についてです。祇園寺は寺伝によると、奈良時代中期の750(天平勝宝2)年に浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)を創建した満功(まんく)上人が創建したと伝わる法相宗(→南都六宗の1つ)寺院で、平安時代に天台宗に改宗され今に至ります。秘仏される鉄造僧形八幡神坐像は鎌倉時代後期に彫られたもので調布市文化財に指定されています。江戸時代には本山・...

常性寺(東京都調布市)を訪問しました

医王山 長楽院 常性寺(→東京都調布市国領町1丁目)は、創建年代は不詳ですが鎌倉時代には「常正寺」という名で多摩川沿いに創建されていたと記される真言宗豊山派寺院です。創建時の宗派は不明です。慶長年間(安土桃山時代後期~江戸時代初期→1596年~1615年)に現在地に移転し、僧の祐仙が成田山 新勝寺(→千葉県成田市成田)より成田不動尊を勧請して真言宗豊山派寺院として中興開基しました。江戸時代には本山・末寺の制により「関...

祇園寺(東京都調布市)を訪問しました(1)

虎柏山 日光院 祇園寺(→東京都調布市佐須町2丁目)は、寺伝によると奈良時代中期の750(天平勝宝2)年に浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)を創建した満功上人が創建したと伝わる天台宗寺院です。創建時は法相宗(→南都六宗の1つ)寺院でした。鎌倉時代後期に彫られた神仏習合の影響が色濃い僧形八幡神坐像は、調布市文化財に指定されています。江戸時代には本山・末寺の制により法縁から深大寺の末寺とされました。た...

国領神社(東京都調布市)を訪問しました

国領神社(→東京都調布市国領町1丁目)は、鎌倉時代に多摩川河畔に創建された社殿を、多摩川の洪水が頻発したため現在地に移転したと伝わります。この場所は、江戸時代の古地図で見ると医王山 長楽院 常性寺(→東京都調布市国領町1丁目)の本堂から北に約200ⅿ離れた場所にあたり、同寺の境内社「第六天社」があった場所になります。神仏習合の頃は、おそらく同寺が別当寺として第六天社の祭祀を司っていたのでしょう。1868(明治元)年の...

大正寺(東京都調布市)を訪問しました

三栄山 大正寺(→東京都調布市調布ヶ丘1丁目)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて創建された広福山 栄法寺・紫雲山 宝性寺・三栄山 不動院 寿福寺の3寺院を、大正時代初期の1915(大正4)年に合併して新たに創建された新義真言宗寺院です。3寺とも江戸時代には本山・末寺の制により星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末寺として幕藩体制の一翼を担っていました。大正寺として合併されることになった由来は『調...

布田天神社(東京都調布市)を訪問しました

布田天神社(ふだてんじんしゃ→東京都調布市調布ヶ丘1丁目)は、平安時代前期の927(延長5)年に制定された『延喜式』神明帳に名を連ねる武蔵国多磨郡八座の1つに数えられる多摩地方有数の古社です。社伝では11代垂仁天皇(→死亡した西暦70年は弥生時代にあたるため実在性はかなり低い)の時代に創建されたと伝わりますが、木簡などの記録から平安時代前期の900年には少彦名命(すくなひこなのみこと)を祭神とする社(やしろ)が創建されて...

光岳寺(東京都調布市)を訪問しました

渓照山 西向院 光岳寺(→東京都調布市富士見町1丁目)は、徳川家康の母・伝通院殿(→於大の方)を埋葬した地に、江戸時代前期の1645(正保元)年に無量山 伝通院 寿経寺(→東京都文京区小石川3丁目)の4代住職の叡誉聞悦(えいよもんえつ)が開山、弟子の成誉廓呑が開基した浄土宗寺院です。寺号は、於大の方の法名「伝通院殿容誉光岳智光大禅定尼」に由来します。江戸時代には本山・末寺の制により無量山 伝通院 寿経寺の末寺に置かれました...

下石原八幡神社(東京都調布市)を訪問しました

下石原八幡神社(→東京都調布市富士見町2丁目)は、創建年代等は不詳ですが、この地の領主であった小田原北条氏の家臣・太田盛久が「若宮八幡宮」として創建したと伝わります。太田盛久は安土桃山時代前期の1579(天正7)年に死去しているので、創建はそれ以前であることが分かります。「若宮八幡宮」とは国府八幡宮の称号で、創建時の祭神は仁徳天皇でした。仁徳天皇は実在性は不確かながら古墳時代中期の大王(16代天皇)で、中国の歴...

蓮慶寺(東京都調布市)を訪問しました

惺誉山 蓮慶寺(→東京都調布市布田2丁目)は、戦国時代に小田原北条氏の家臣・中条出羽守が開基、池上本門寺の12代住職日惺が開山た日蓮宗寺院です。寺伝によると当地に古くから存在した真言宗閻魔寺を、1532(天文元)年に中条中条出羽守が日蓮宗寺院に改宗して開基したといいます。しかし、北条氏康が河越合戦で武蔵守護の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏を滅ぼして布田郷に進出するのは1546(天文15)年のことなので、創建はそれ以降のこと...

泉福寺(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

平栄山 泉福寺(→神奈川県川崎市宮前区馬絹2丁目)は、生没年不詳の僧・義天法印によって創建された天台宗寺院です。境内の文化財などから江戸時代前期に創建されたと考えられます。江戸時代には本山・末寺の制により浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。また、馬絹(まぎぬ)神社(→神奈川県川崎市宮前区馬絹5丁目)の前身である女体権現社の別当寺として祭祀を司りました。泉...

馬絹白山神社(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

馬絹白山神社(→神奈川県川崎市宮前区馬絹5丁目)は、明治時代後期の1910(明治43)年に八幡神社・三嶋神社・熊野神社とともに神明神社(→のちの馬絹神社)に合祀された白山神社から分祀して建てられた神社です。境内社の矢中稲荷明神は、馬絹神社の氏子組織である「馬絹神社奉賛会」の矢中講の有志が創建したと石碑に書かれています。この地域は、昭和時代前期の1934(昭和9)年の資料では「橘樹郡宮前(みささき)村矢中」と書かれており、...

馬絹神社(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

馬絹神社(まぎぬじんじゃ→神奈川県川崎市宮前区馬絹5丁目)は、江戸時代前期の元禄年間(→1688年~1704年)以前に創建された旧馬絹村の総鎮守で、神仏習合当時は女体権現社といい、本山・末寺の制により平栄山 泉福寺(→神奈川県川崎市宮前区馬絹2丁目)が別当寺として祭祀を司っていました。女体権現社は1868(明治元)年の神仏分離令により女体神社と改称し、1910(明治43)年3月には国の一村一社政策により近隣の八幡神社・三嶋神社・熊...

馬絹古墳公園(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

馬絹(まぎぬ)古墳公園(→神奈川県川崎市宮前区馬絹5丁目)は、矢上川の沖積台地を望む標高43ⅿの台地の南縁にある円墳で、飛鳥時代の7世紀(→601年~700年)後半頃に築造されたと考えられています。現在は神奈川県の史跡公園として保存され、公園内にはパネルが設置されています。昭和時代後期の1971(昭和46)年に川崎市教育委員会による発掘調査が行われ、その結果、墳丘径約33ⅿ、墳丘高約6ⅿの円墳であることと、墳丘の周りには幅3.5ⅿ、...

西福寺(神奈川県川崎市高津区)を訪問しました

光永山 寿明院 西福寺(→神奈川県川崎市高津区梶ヶ谷5丁目)は、戦国時代から安土桃山時代までに創建された天台宗寺院です。本尊は阿弥陀如来像で、江戸時代には本山・末寺の制により浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)とされ、梶ヶ谷神明社(→神奈川県川崎市高津区梶ヶ谷4丁目)の別当寺として祭祀を司っていました。西福寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡梶ヶ谷村の条に次...

梶ヶ谷神明社(神奈川県川崎市高津区)を訪問しました

梶ヶ谷神明社(→神奈川県川崎市高津区梶ヶ谷4丁目)は、創建年代などは不詳ですが、江戸時代前期の元禄年間(→1688年~1704年)に「神明社」として創建されたと伝わります。当時は三峯社と秋葉社が境内社として祀られていたようです。神仏習合の江戸時代には光永山 寿明院 西福寺(→神奈川県川崎市高津区梶ヶ谷5丁目)が別当寺として祭祀を司っていました。明治時代初期の1870(明治3)年に近くの子神社(ねのじんじゃ)を合併し、1873(明治6...
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