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日蓮辻説法跡(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

日蓮辻説法跡・鎌倉日蓮堂(→神奈川県鎌倉市小町2丁目)は、日蓮宗を開いた日蓮が、鎌倉時代中期の1253(建長5)年に、安房国の千光山 清澄寺(→千葉県鴨川市清澄)から松葉ヶ谷草庵(まつばがやつそうあん→神奈川県鎌倉市大町名越)に入り、龍ノ口の法難が起きた1271(文永8)年までの18年間、辻説法(→道が交差した場所に立って道行く人に説法すること)を中心とする布教活動を行ったとされる場所です。日蓮は、この場所で法華経の布教に努め...

補陀洛寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

南向山 帰命院 補陀洛寺(ふだらくじ→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、平安時代末期の1181(養和元)年に源頼朝の祈願所として、僧の文覚(もんがく)が開山した真言宗大覚寺派寺院です。文覚は俗名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、後白河法皇や源頼朝に重用されたもと北面の武士(→院御所を警固する武士)で、1180(治承4)年に平氏打倒を命じた後白河法皇の院宣を頼朝に仲介し挙兵を促したとされる僧侶です。昨年のNHK大河ドラマ「鎌...

蓮乗院(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

天照山 蓮乗院(れんじょういん→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、天照山 蓮華院 光明寺の塔頭(→大寺院の中にある末寺)の浄土宗寺院ですが、創建は光明寺よりも古く、もとは「蓮乗寺」という独立した密教寺院で、鎌倉時代前期の1242(寛元元)年に佐助ヶ谷(さすけがやつ)にあった蓮華寺(れんげじ)が材木座に移され光明寺となったのち、その塔頭になりました。光明寺が移築されている期間、住職の良忠が蓮乗寺に寄留していたことから、以...

千手院(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

天照山 千手院(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、観音堂として創建された天照山 蓮華院 光明寺の塔頭(たっちゅう→本寺の境内にある末寺)の1つで、赤い山門が目印です。光明寺が大檀林(→仏教の最高学府)であった江戸時代には、学僧が修行する僧坊として使われたといいます。創建時の院号は専修院(せんじゅいん)でしたが、戦国時代中期の1532(天文元)年に住職の恢誉(かいよ)が守護仏として持ち込んだ千手観音像立像が鎌倉中で知れ渡っ...

光明寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

天照山 蓮華院 光明寺(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、鎌倉時代前期の1240(仁治元)年に、鎌倉幕府4代執権北条経時(ほうじょうつねとき)が佐助ヶ谷(さすけがやつ→神奈川県鎌倉市佐助1丁目)に良忠院 悟真寺(現在の住吉山 悟真院 正覚寺→神奈川県逗子市小坪5丁目)の僧良忠を招いて開基し、1243(寛元元)年に現在地に移された浄土宗大本山寺院です。創建時は「蓮華寺」といい、移転時に「光明寺」と改めたと記されます。江戸時代には浄...

西勝寺(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました

影顕山 西勝寺(→神奈川県横浜市青葉区新石川1丁目)は、京都の龍谷山 本願寺(いわゆる西本願寺→京都府京都市下京区堀河通花屋町下ル本願寺門前町)に属する浄土真宗本願寺派寺院です。江戸時代中期に僧の順応(誕生年不明~1739年)によって開山されたと伝わりますが、江戸時代後期の1845(弘化2)年に、現在の美しが丘西(→神奈川県横浜市青葉区)で領主の旗本が花火を催した際、火の粉が西勝寺の屋根に落ちて全焼し、創建以来の伽藍が失...

秋月院(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

長沢山 秋月院(→神奈川県川崎市宮前区菅生2丁目)は、戦国時代に小田原北条氏の家臣・大木頼母之助(おおきたのものすけ)の子・主馬之助(しゅめのすけ)が、地震で亡くなった両親を高野山(→和歌山県伊都郡高野町)に埋葬した後、出家してこの地に庵を創建したところから始まります。1590(天正18)年に小田原北条氏が滅亡すると、北条氏旧臣の片山図書(→法名秋月月心)が夫婦で平村に隠居し、彼らが死去すると遺骸は大木主馬之助が創建し...

盛源寺(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

清水山 盛源寺(→神奈川県川崎市多摩区長沢1丁目)は、創建年代は不詳ですが、安土桃山時代に夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の3代住職・玄頓が開山した曹洞宗寺院です。玄頓は1591(天正19)年に死去しているので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により修廣寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。本堂へ向かう参道の右手には川崎市の重要郷土資料に指定されている「寛文十年霜...

菅生神社(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

菅生神社(すがおじんじゃ→神奈川県川崎市宮前区菅生2丁目)は、鎌倉時代前期の1233(貞永2)年に、下菅生郷(しもすがおごう)蔵敷(ぞうしき)の鎮守として白幡八幡大神(→神奈川県川崎市宮前区平4丁目)の祭神を勧請して創建された神社です。1233(貞永2)年は鎌倉幕府3代執権北条泰時(やすとき)が、最初の武家法である御成敗式目を制定した翌年にあたり、創建当時は若宮八幡大神と称されました。時代が下り江戸時代になると神職の小泉信濃...

長安寺(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

法林山 長安寺(→神奈川県川崎市多摩区菅生4丁目)は、京都にある渋谷山仏光寺(→京都府京都市下京区新開町)の末寺に属する浄土真宗仏光派寺院です。創建年代の詳細は不詳ですが、戦国時代に小田原北条氏の家臣・間宮長安が無住となっていた寺を開基したと伝わります。間宮長安は、江戸時代中期の1774(安永3)年に前野良沢とともに最初の翻訳解剖書である『解体新書』を著した杉田玄白の先祖にあたります。開基の頃は浄土真宗大谷派に...

五所塚・権現台遺跡(神奈川県宮前区)を訪問しました

五所塚・権現台遺跡(→神奈川県川崎市宮前区五所塚1丁目)は、五所塚第1公園内に南北に並ぶ直径4ⅿ・高さ2ⅿ前後の5つの塚を中心とした遺跡群です。外観が古墳に似ているところから、江戸時代に編纂された地誌には墳墓と記されています。しかし、川崎市教育委員会の調査により、現在は中世や近世になって尾根筋に築かれた平尾十三塚(→東京都稲城市平尾2丁目と神奈川県川崎市麻生区五カ田の境)と同様な「境信仰(→境界信仰とも)」の塚で...

長尾神社(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました

長尾神社(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)は戦国時代中期の1549(天文18)年の創建とも伝わりますが、実際の創建年代は不明です。神仏習合の頃は神社の南側に5つの古塚(→五所塚)があることから五所権現社、または五所神社と呼ばれていました。長尾山 勝寿院 妙楽寺(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)が旧別当寺で、1868(明治元)年の神仏分離令により別当関係が解消されるまで祭祀を司りました。妙楽寺の他、神木山 等覚院 長徳寺(→神...

妙楽寺(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました

長尾山 勝寿院 妙楽寺(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)は、開山開基の詳細は不詳ですが、平安時代前期の仁寿年間(→851年~854年)に創建された長尾山 威光寺(→別名長尾寺)の跡地に建立された天台宗寺院です。仁寿年間は天台宗寺門派の宗祖となる円珍(智証大師)が新羅商人の船で入唐(にっとう→唐に入国)した時期でもあります。長尾郷は、鎌倉時代前期の頃は関東御領(→鎌倉幕府の経済基盤となった荘園・公領)となるなど、源氏将軍家...

神木天満宮(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

神木天満宮(しぼくてんまんぐう→神奈川県川崎市宮前区神木本町3丁目)は、創建年代等は不詳ですが神仏習合の時代には赤城社と呼ばれ、天台宗寺院の神木山 等覚院 長徳寺(→神奈川県川崎市宮前区神木本町1丁目)が別当寺として祭祀を司っていました。赤城社の9月の例祭は五所権現社と呼ばれていた長尾神社(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)と隔年で行われていたと記されます。1868(明治元)年の神仏分離令により等覚院との別当関係が解...

等覚院(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました

神木山 等覚院 長徳寺(→神奈川県川崎市宮前区神木本町1丁目)は、開山開基の詳細は不詳ですが、安土桃山時代初期の1573(元亀4)年に中興された天台宗寺院です。地元では等覚院の名で親しまれています。江戸時代には本山・末寺の制により浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。現在の本堂は、将軍継嗣問題と通商条約締結に揺れた幕末期の安政年間(→1854年~1860年)に再建され、...
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