fc2ブログ

大巧寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

長慶山 正覚院 大巧寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)は日蓮宗を離脱した単立寺院で、寺伝によると、鎌倉時代初期に梶原景時邸に創建された「大行寺」という名の真言宗寺院が前身で、源頼朝の祈願寺となり、頼朝がこの寺で軍評定(いくさひょうじょう→作戦会議)を行った合戦が勝利につながったことから「大巧寺」に改めたと伝わります。その後、1320(元応2)年2月に現在地へ移転し、長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)にいた日蓮に...

別願寺・足利持氏の墓(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

稲荷山 超世院 別願寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、創建年代は不詳ですが、「能成寺」という名の真言宗寺院として鎌倉時代前期には創建されていたと伝わります。公忍が住職の時に、踊念仏(おどりねんぶつ)で有名な時宗の開祖一遍に帰依し、1282(弘安5)年に宗派を時宗に改め、寺号を「別願寺」としたと記されます。1282(弘安5)年は2度目の蒙古襲来(→弘安の役)に勝利した翌年にあたり、寺社の恩賞問題は御家人の恩賞と並び幕府の喫...

二・二六事件慰霊像(東京都渋谷区)を訪問しました

二・二六事件慰霊像(→東京都渋谷区宇田川町1丁目)は、1936(昭和11)年2月26日~29日に発生した二・二六事件の蹶起(けっき)に失敗し、特設軍法会議の結果銃殺(→罪状は叛乱罪)となった青年将校らを慰霊するため、事件から30年目の節目となる1965(昭和40)年2月26日に遺族会(→仏心会)が設置し、遺族・関係者700人ほどが参加して除幕式が行われました。*********************************〖二・二六事件〗1936(昭和11)年2月26日早暁、陸...

渋谷氷川神社(東京都渋谷区)を訪問しました

渋谷氷川神社(→東京都渋谷区東2丁目)は、古くは氷川大明神といい旧下渋谷村・豊沢村の総鎮守として崇敬されました。江戸時代初期の1605(慶長10)年に別当寺を務めた恵日山 薬王院 宝泉寺(→東京都渋谷区東2丁目)の100代住職貿園が記した『氷川大明神並(ならびに)宝泉寺縁起』によると、古墳時代前期(→4世紀)の景行天皇の時代、日本武尊(やまとたける)が東征(→東国平定)の際、この地に素戔嗚命(すさのおのみこと)を勧請し、その後、平...

豊栄稲荷神社(東京都渋谷区)を訪問しました

豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、鎌倉時代前期に渋谷高重が創建した田中稲荷社と、江戸時代に但馬豊岡藩(→外様大名京極氏)の下屋敷で祀られた豊沢稲荷社の2社を前身とする神社です。田中稲荷社はもともと現在の渋谷駅(→東京都渋谷区道玄坂1丁目)近くにあり、戦国時代の1524(大永4)年に北条氏綱と扇谷上杉朝興の合戦の際に被害を受け、江戸時代前期の1703(元禄16)年8月に再建されたようです。江戸時...

金王八幡宮(東京都渋谷区)を訪問しました

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、平安時代後期の1092(寛治6)年に渋谷氏の祖・河崎高家によって創建され、高家の子・渋谷重家はここを中心に居館(→「渋谷城」)を築き渋谷荘(しぶやのしょう→荘園)の経営を行いました。以来、金王八幡宮は渋谷氏の氏神として崇敬され、神仏習合の頃は、隣接する渋谷山 親王院 東福寺が別当寺として祭祀を司りました。縁起によると、渋谷重家には嫡子(→家督継承者)がなく金...

東福寺(東京都渋谷区)を訪問しました

渋谷山 新王院 東福寺(→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、平安時代後期の1173(承安3)年に源義家(→源頼義の嫡子)が開基、僧の円鎮が開山した天台宗寺院です。創建当初は「新王院」といい、鎌倉時代前期の1202(建仁2)年にこの地の地頭渋谷高重が住職の円証に帰依したことから「渋谷山 常照院 円証寺」に改められました。寺号が東福寺に改められたのは江戸時代に堂宇が再興されてからですが、ここでは全て「東福寺」で表記を統一します。109...

本覚寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

妙厳山 本覚寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)は、室町時代中期の1436(永享8)年に鎌倉公方足利持氏が開基、僧の日出が開山した日蓮宗寺院です。2代住職日朝(→のち身延山久遠寺の11代住職)の時代に、日蓮宗総本山・身延山久遠寺(→山梨県南巨摩郡身延町身延)から日蓮の骨を分けられたので、「東身延」(ひがしみのぶ)とも呼ばれます。本覚寺が建つ場所は鎌倉幕府(→頼朝期の大蔵幕府)の裏鬼門にあたり、頼朝が鎮守のため夷堂(えびすどう)を...

教恩寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

中座山 大聖院 教恩寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、戦国時代中期に小田原北条氏の北条氏康(→3代目)が開基、僧の知阿が開山した時宗(じしゅう)寺院です。もともとは鎌倉時代前期に天照山 蓮華院 光明寺(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)北の山際に建てられ、現在地には光明寺の末寺「善昌寺」がありましたが、善昌寺が廃寺になったため、江戸時代前期の1678(延宝6)年に僧の貴誉が現在地へ移転したと記されます。本尊の阿弥陀如来像は...

安養寺(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

天輪山 無量院 安養寺(→神奈川県川崎市中原区上新城1丁目)は、戦国時代中期の1567(永禄10)年に僧の宥和が開山したと伝わる真言宗智山派寺院です。1567(永禄10)年は武田勝頼公の嫡子信勝、真田昌幸の次男信繁(→いわゆる幸村)、伊達輝宗の嫡子政宗らが生まれた年でもあります。江戸時代には、本山・末寺の制により龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の末寺となり幕藩体制の一翼を担い、天満宮(→新城神社の...

宝蔵寺(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

大谷山 和光院 宝蔵寺(→神奈川県川崎市中原区上小田中1丁目)は、戦国時代中期の1520(永正17)年に小田原北条氏の有力国衆である吉良氏朝(→世田谷城主)に仕えた原勘解由左衛門勝光(はらかげゆざえもんかつみつ→1606年死去)が開基、僧の法印賢祐(→1533年死去)が開山した真言宗智山派寺院と伝わります。1590(天正18)年の小田原合戦で北条氏に与した吉良氏が滅亡したため、原勝光は上小田中村に移住して帰農し、原氏の祈願所として宝蔵...

新城神社(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

新城神社(→神奈川県川崎市中原区新城中町4丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、「元禄七年九月領主中川左平太重興建立」という棟札が残っており、江戸時代前期(→5代将軍徳川綱吉の頃)の1694(元禄7)年9月に創建されたことが分かります。中川重興は正覚山 又玄寺(ゆうげんじ)を開基とした徳川氏の旗本で、1645(寛永21/正保元)年に生まれ、母の実家・吉田流弓術の中川重龍(しげたつ)の養嗣子(→家督相続人の養子)となり、弓術のほか...

又玄寺(神奈川県川崎市中原区)を訪問しました

正覚山 又玄寺(ゆうげんじ→神奈川県川崎市中原区新城中町1丁目)は、江戸時代中期に旗本で新城村の領主中川重興が開基した臨済宗妙心寺派寺院で、旗本中川氏の菩提寺でした。1590(天正18)年に徳川家康が関東入封したのち、新城村は旗本中川氏の知行地となり幕末までその支配が続きました。中川重興は1645(寛永21/正保元)年の生まれで、母の実家・吉田流弓術の中川重龍(しげたつ)の養嗣子(→家督相続人の養子)となり、弓術のほかにも...

蛇苦止堂(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

蛇苦止堂(じゃくしどう→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、鎌倉時代中期に北条政村(→北条義時5男、母は伊賀氏、7代執権)が若狭局(わかさのつぼね→源頼家の妻)を供養するために長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)境内に建立して堂宇です。創建は1260(文応元)年と伝わります。若狭局は、1203(建仁3)年9月2日の比企能員(ひきよしかず)の乱で北条氏に滅ぼされた能員の娘で、2代将軍源頼家の側室となり長男一幡(いちまん)を生みますが...

妙本寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、1203(建仁3)年9月2日の比企能員(ひきよしかず)の乱で滅亡した比企一族の屋敷跡に比企能本(ひきよしもと)が開基し、日蓮が開山した日蓮宗の霊蹟本山寺院です。創建は鎌倉時代中期の1260(文応元)年と伝わります。比企能本(ひきよしもと)は比企能員の乱の前年に生まれた比企能員(ひきよしかず)の末子で、『吾妻鏡』には、比企能員の妻妾と能員の2歳(→数え年)の男子は助命され、和田義盛に...
img { pointer-events: none; } img { -webkit-touch-callout:none; -webkit-user-select:none; -moz-touch-callout:none; -moz-user-select:none; touch-callout:none; user-select:none; }