駐日アメリカ大使ジョセフ=グルー ~日米開戦ヲ回避セヨ!~
太平洋戦争開戦時の駐日アメリカ大使ジョセフ=グルーという人物をご存じでしょうか。
彼は本土決戦から日本と国民を救った立役者でもあります。多くの日本の友人や、敬愛する昭和天皇、そして駐日大使時代に接して親しみを感じる日本国民。彼らを戦争の困難から解放するため、アメリカ国務省の中で孤軍奮闘といってもよい活躍をしました。また、原爆投下を回避するため陸軍長官スチムソンの説得を試みたり、ポツダム宣言の条文に国体護持を入れて、日本側が受けいれやすい条文にするようトルーマン大統領に訴えかけもしました。「日米開戦ヲ回避セヨ」の最後として、ジョセフ=クルーについて紹介します。
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<グルーの来日>
ジョセフ=グルー(1880年5月27生~1965年5月25日没)。グルーは、1932年(昭和7年)6月に駐日大使として来日し、1942(昭和17)年に野村吉三郎(のむらきちさぶろう)駐米大使らとの戦争交換船で米国に帰国するまでの10年間、日米間の緊張緩和に努め、戦争回避に尽力したことで知られています。
彼が来日した前年、1931(昭和6)年9月18日、関東軍は柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)をきっかけに満州事変を起こして中国東北部を占領しました。翌1932(昭和7)年3月1日には清朝最後の皇帝で天津日本租界内に身を寄せていた愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を執政とする「満州国」を建国しました。立憲政友会の総裁で首相の犬養毅(いぬかいつよし)は、「満州国」を独立国として認めなかったため、海軍青年将校らは同年5月15日に五・一五事件を起こして犬養首相を射殺します。
後任の斎藤実(さいとうまこと)内閣は、9月15日に日満議定書を締結して満州国を独立国として承認したため、中国大陸に利権をもつアメリカ・イギリスとの対立が一層鮮明になりました。日本が中国大陸での利益を独占することを嫌がり日本を強く非難したのです。グルーが駐日大使として来日したのはこのように日米関係が悪化した時期だったのです。グルーに課せられた使命、それは日本の今後の出方を見極めることとともに、日米の緊張関係を和らげることでした。
この時期のグルーの日記には次のような言葉が残されています。
Will Japan be
content with Manchuria――
日本は満州だけで満足するのだろうか
far-flung
empire throughout Asia――
アジアに大帝国を築くつもりか
さらに日本がこののち衝動的に世界と衝突し、取り返しのつかない戦火に見舞われるのではないかと懸念し、自分の生涯が―the
most adventurous of all(最も波乱に満ちたものになる)―と、記しています。
1932(昭和7)年6月22日、グルーは駐日大使の信任状を持って宮城(きゅうじょう。現在の皇居)を訪れました。世界の王室帝室の中で最古にして最長の歴史を持つ天皇家。そして日本の国家元首で陸海軍を統帥する最高司令官でもある昭和天皇とはいったいどのような人物なのか、グルーはその時の印象を日記に記しています。
Emperor Horohito smiles pleasantly(裕仁天皇は心地よい微笑を浮かべられる)―陛下があまりに気さくに話しかけられるので、私は生い立ちから何から何まで全て話すことになった。陛下はそれを熱心に聞いておられた。(グルーの日記より)
昭和天皇
グルーは早速街に出て、駐日大使として日本の人々との交流を行います。そして予想以上に日本人が親切な国民性をもっていることに驚きました。ある日、宮城(現在の皇居)の周りで愛犬サムボーの散歩をしていたとき、生後まもない愛犬がお濠に落ちて溺れてしましました。するとたちまち周りにいた人々が集まってきて、通りすがりの若者がお濠の中に飛び込み、愛犬サムボーを救助してくれたのです。グルーは感激して若者に名前をたずねますが、若者は「これぐらい当たり前のこと」と、言って名も語らず立ち去ってしまいました。このことは新聞にも大きく取り上げられました。
昭和9年1月20日「朝日新聞」より
「苦しむ人間に同情して相手を助けようと全力を尽くす真心。日本人の美しい行為に私はまったく驚嘆するとともに敬意を覚えました。」(グルーの日記より)
さらにひと月後、アリス夫人と宮城(皇居)を訪れた際、昼の会食後、昭和天皇から思いがけない言葉をかけられたのです。「―he
said,‟How’s Sambo?“ 子犬のサムボーはどうしていますか?」(グルーの日記より)。グルーは、サムボーがお濠に落ちて勇敢な若者に救われたことを天皇が知っていたことに驚きます。そして子犬のことにまで気を遣われ、「exceedingly
cordial 優しい心遣い」(グルーの日記より)をされる天皇に強く親しみを感じるのでした。
グルーはやがて、天皇の存在が日米関係の未来にいかに重要であるかを知ることになります。それは日本の国際連盟脱退(1933年)以来険悪化する日米関係の緊張を和らげるため、親米派の要人をアメリカ大使館に招いたときのことです。グルーは尋ねました。
「日本の軍部はこのまま中国大陸への進出を続けていくのだろうか?このままでは合衆国との衝突は避けられない。日本は軍隊の行動をちゃんとコントロールできるのか心配に思う。」(グルーの日記より)
これに対し、客人の一人、内大臣の斎藤実(さいとうまこと)が、「日本には他の国にはない、皇室という守り神がいてくださります。どんなことになっても陛下がおられるので、日本では軍部の独裁がおこる心配がないのです」(グルーの日記より)と、答えました。
グルーはただちにアメリカ本国に打電し、日本と直ちに対決姿勢をとるべきではないと報告しました。「日本には平和を渇望する人々が大勢います。当面は穏やかな態度で接するのが最善だと判断します。今の日本は一時的な興奮状態に陥っているだけだと理解しております。」(グルーの日記より)
グルーは、天皇が日本社会の中心的存在で、広い意味で国民の心のよりどころとなっていると確信しました。彼が天皇制と昭和天皇の存在を正しく理解したことは、その後の日米外交の中で重要なキーとなりました。グルーの提言はアメリカ政府に採用されます。緊張状態にあった日米関係は次第に落ち着きを取り戻すかにみえました。しかし、日本が軍国主義となる大きな転機が訪れました。
―1936(昭和11)年2月26日 二・二六事件―
二・二六事件は、「昭和維新」の名の下に天皇親政による軍部独裁国家の樹立を目指した、陸軍皇道派の青年将校によるクーデターです。2月26日未明、安藤輝三(あんどうてるぞう)大尉、栗原安秀(くりはらやすひで)中尉など、陸軍青年将校に率いられた約1500人の兵士が元老や政府要人・財界人を襲撃し、9人が殺害されました。襲撃部隊は首相官邸や警視庁など東京の中枢をわずか数時間で占拠。天皇親政を目指し国家改造を実現しようとしたこの行動は近代日本史上最大のクーデター事件と言われています。
前日の2月25日夜、グルーは親しい友人であった内大臣斎藤実(さいとうまこと)と、天皇の側近を務める侍従長鈴木貫太郎(すずきかんたろう)らを大使公邸に招き、夕食をとったあと、アメリカのコメディー映画『浮かれ姫君』を観賞し、気の置けない親友たちと深夜まで楽しみました。齋藤にいたっては当初は別荘に行くので途中で退席する予定だったのですが会話が弾み別荘行きは翌日に変更し、この日は帰宅したのです。運命の皮肉です。
自宅に戻った数時間後、斎藤と鈴木は陸軍皇道派の青年将校率いる歩兵部隊の襲撃を受けました。齋藤は軽機関銃によって全身に40発以上の銃弾を撃ち込まれるなどして即死。鈴木は額や胸などを拳銃で撃たれましたが、たか夫人が「もう助かりません。とどめだけはどうか待ってください。」と、懇願します。兵隊が立ち去ったのち懸命な救助活動を行った結果、鈴木は一命をとりとめました。しかし、瀕死の重傷を負ったため長く務めていた侍従長を辞職しました。
共に日米関係の未来について語り合ってきた親友2人を失ったグルーは深く悲しみました。昭和天皇は襲撃部隊を反乱軍とみなし、「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」、「朕自ら近衛師団を率いて、此れが鎮定に当たらん」(侍従武官長の日記より)、と強い口調で断固鎮圧を命じました。その結果、二・二六事件は4日で収束しました。
天皇が動いたことで事件は解決したと、グルーは確信します。しかし、二・二六事件によってグルーと親しかった穏健派の政治家たちは軍部に対する影響力を失っていきました。軍部は軍部大臣現役武官制という制度を復活させて内閣の組閣・倒閣すら自由に行えるようにしました。こうして軍国主義の色合いを濃くしていった日本は泥沼の戦争への道を進んでいくことになるのです。
翌1937(昭和12)年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。内閣は当初不拡大方針をとりますが現地の部隊は戦線を拡大。ついには日本本土から増援部隊をおくることとなり、政府も不拡大方針を一変させ早期戦争終結のため大軍勢を中国大陸、さらにはフランス領インドシナ半島にまで送りました。
日中戦争地図(岐阜県まるごと学園より)
日中戦争(「東京日日新聞」1937年7月9日号)
北京、上海、武漢三鎮、南京(首都)、ハイナン島と、急速に中国沿岸部の主要都市を占領していった日本に対し、アメリカのフランクリン=ローズベルト大統領は日本への石油やくず鉄の輸出を禁止しました。日米関係は一気に悪化しました。苦悩するグルーは近衛文麿(このえふみまろ)首相から呼び出しを受け、面会します。近衛は日中戦争の早期終結のための策を伝えられます。それは近衛首相とローズヴェルト大統領の首脳会談を行うというものでした。実は近衛は昭和天皇からじきじきに日米開戦を避けるための外交交渉を行うことを求められていたのです。
1941(昭和16)年10月、グルーは天皇が動けば軍部を抑えられるかもしれないと考え、ローズヴェルト大統領と近衛首相のトップ会談を受けるようアメリカ本国に働きかけました。しかし、グルーの提言はアメリカ政府内で反対されました。「prior
to the meeting 首脳会談の前に」「desirable to reach an agreement
事前合意があるべきだ」(国務長官の記録より)、事前交渉もなしにいきなり首脳会談を行うべきではないというのが理由でした。近衛首相は日中戦争の見通しがたたず、日米交渉にも行き詰まり、半ば投げ出す形で内閣総理大臣を辞職しました。
その2カ月後、陸軍大臣を兼任する東条英機(とうじょうひでき)首相はアメリカがもはや日米交渉に応じる気がないことを知り、ついに対米英蘭開戦―すなわち太平洋戦争(大東亜戦争)に踏み切りました。1941(昭和16)年12月8日のことです。
グルーは1942(昭和17)年、戦争交換船で駐米大使野村吉三郎と入れ替わる形で日本を去ることになりました。グルーは日本を去る日、1本の桜の若木を大使公邸に植えました。この桜が大きくなって花開く頃には戦争が終わり日米は平和を取り戻しているだろう…そんな願いを込めたのかもしれません。
日本びいきで日本の古典芸能やその様式美に感銘を受けたグルー。駐日大使時代には大使館員で自ら歌舞伎を上演してみたほどの日本通でした。そんなグルーはアメリカに帰国したのち、戦争終結に向けた大仕事を行います。アメリカに帰国した直後のグルーは、予想以上の反日感情の高さに驚きます。中でも衝撃を受けたのはアメリカ政府によるプロパガンダ映画の中に、「この顔を忘れるな!」としてドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニと並んで昭和天皇の写真が並べられていたのです。
アメリカのプロパガンダ
アメリカ国民は天皇について誤解している、とグルーはラジオや市民向けの演説で天皇が最後まで戦争に反対し、平和を愛する人物だと懸命に訴えかけました。しかしその考えはアメリカ国民に好意的に受け入れられるものではありませんでした。ニューヨークタイムズ紙は、戦争中に敵国の元首である天皇を擁護することは「out of
place 場違いな発言」と批判。フィラデルフィアレコーズ紙は「doing
business with Emperor 天皇と取引している」とまでこき下ろします。グルーはアメリカ国務省の指示で外交の表舞台から外されてしまいました。
それから1年半後の1945(昭和20)年4月、それまで日米戦争を主導してきたフランクリン=ローズヴェルト大統領が急死。後任に外交経験のほとんどない副大統領のトルーマンが大統領に就任しました。日本について何の知識もないトルーマンは日本について詳しいグルーに期待をかけます。この時期、太平洋戦争は沖縄戦が始まり、沖縄県民の4人に1人が亡くなるという激しい戦闘になりました。連日日本本土からは神風特攻隊が出撃をくり返し、連合艦隊は戦艦「大和」を軽巡洋艦や駆逐艦で守らせ水上特攻をさせる始末。日本軍は総力をあげて沖縄に戦力を投入して抵抗しました。そのため米軍も予想を上回る速さで戦死者を重ねていきました。
さらに米軍は日本本土への上陸作戦の計画を着々と進めていました。対する日本も「一億玉砕」やむなしと本土決戦の準備をしていました。このままでは日米双方に莫大な犠牲者が出る―そう考えたグルーは、何とか戦争を終わらせられないかと、連合国軍による降伏勧告―すなわちポツダム宣言の起草に携わります。
戦争終結のカギを握るのは昭和天皇だと認識していた彼は、天皇の地位を保全することを宣言に盛り込みました。ところが、国務省内で対日強硬派として知られるバーンズ国務長官の判断でその条文は削除され、日本に無条件降伏を求める内容となっていました。グルーは宣言の内容を見て驚愕します。そして天皇制を残さなければ戦後の日本はバラバラになってしまうと考えたからです。グルーはただちにトルーマン大統領に次のことを訴えます。
The greatest
obstacle to unconditional surrender by the Japanese is their belief that this would entail the
destruction or permanent removal of the Emperor and the institution of the Throne. 無条件降伏という文言の最大の障害は、日本人がこれを天皇と天皇制の破壊ないしは、永久的な排除と解釈することである(グルーの回顧録5月28日より)
しかし、グルーの訴えは聞き届けられませんでした。そして7月26日、アメリカ・イギリス・中国の名前でポツダム宣言が勧告されました。大日本帝国政府は、国体護持が守られるのかどうか、水面下で問い合わせますが、バーンズはそれについての直接な言及は避け、ただ連合国軍最高司令官に従属するとだけ答えます。これがバーンズ回答と呼ばれるもので、その結果、鈴木貫太郎内閣(昭和20年4月7日組閣)は、国体護持が守られるかどうかの解釈をめぐって、早期受諾を求める東郷茂徳(とうごうしげのり)外相と、陸軍の暴発を抑えるためそれに反対する阿南惟幾(あなみこれちか)陸相が対立。何度も御前会議(※天皇臨席の最高会議)が開かれ、それでもなかなか意見が一致しませんでした。
その間に8月6日に広島に原子爆弾が投下され、8月8日にソヴィエト連邦が日ソ中立条約を破棄して満州国と南樺太に侵攻します。8月9日には長崎に原子爆弾が投下され多くの市民が犠牲になりました。広島には捕虜となっていた12名の米兵がいましたが、彼らも被爆し、亡くなりました。8月14日、異例ともいえる昭和天皇の「聖断」により、鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾を決定し、連合国に打診。翌8月15日、天皇の玉音放送(※終戦を伝える天皇肉声のラジオ放送)により戦争は終わりました。日米双方の意思疎通ができホットラインが繋がっていれば、グルーの奮闘が実を結び、早期に終戦が訪れ救える多くの命があったかもしれません。
終戦とともにグルーは全ての公職から退きます。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のダグラス=マッカーサー最高司令官は、日本の民主化政策のためには昭和天皇や日本政府高官とも交流があるグルーの協力が不可欠と考え、グルーに顧問就任を依頼します。しかし、占領軍として日本人の友人らと再会できないと考え固辞します。グルーは終戦後、一度も日本を訪れることなく84歳で亡くなりました。
戦争中、グルーが日本を経つ際に大使公邸に植えた桜の一部は、現在港区立麻布小学校の敷地内に移植され、「グルーの桜」と呼ばれています。麻布小学校同窓会の方々が創立135周年記念に植樹されたのだといいます。当時の駐日大使も式典に参加したそうです。太平洋戦争という困難な時代にも日米の友情を信じて必死に戦争回避と早期終戦に尽力した元アメリカ駐日大使ジョセフ=グルー。「日米開戦ヲ回避セヨ」と奮闘してくれた一人として覚えておいてください。

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