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広島に原子爆弾が投下

かつて天皇が、日本人が絶対に忘れてはならない日の一つとして86日を挙げられました。太平洋戦争末期の1945(昭和20)86日午前815分、広島市に人類初となる原子爆弾が米軍によって投下された日です。



広島県産業奨励館
原爆投下前の広島県産業奨励館(広島平和文化センター所蔵)


この日は月曜日。朝から快晴で、真夏の太陽がのぼると気温はぐんぐん上昇しました。深夜零時25分に出された「空襲警報」が午前210分に解除され、ようやくまどろみかけていた広島市の人々は、午前79分、「警戒警報」のサイレンで叩き起こされました。

この時は米軍機1機が高高度を通過していっただけだったため、警戒警報は午前731分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたり、学校に登校したり……それぞれの1日を始めようとしていました。


この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで放送原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。



「中国軍管区情報(※中国地方の軍管区からの軍事情報)!!敵大型3機、西条上空を……」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリという凄まじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮きあがったといいます。


B29エノラ・ゲイ号が投下したウラン型原子爆弾(以下原爆と書く)は、投下から43秒後に地上から約580mの上空で閃光(せんこう)を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280mの大きさとなり、爆心地の表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。爆発の瞬間、強烈な熱線と放射能が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。


原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺戮(さつりく)が瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による被害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

(参考資料:広島市作成「原爆被害の概要」より)


原爆の被害やその惨状については、広島市のホームページや広島平和記念資料館のホームページにありますので、ヒロシマについて学びたい方はぜひご覧になってください。

被爆直後の広島市
被爆直後の広島市(広島平和文化センター)


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 さて、広島市に投下された原爆については、中学校や高等学校の国語(現代文)や英語の教科書の中にも、それを題材にした作品がいくつかあります。代表的なものを何点か紹介します。

峠三吉『原爆詩集』より

序 

ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんによのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ


作者の峠三吉は28歳で被爆。『原爆詩集』では、被爆直後の広島市の惨状を伝え、戦争や核兵器の非人間性を全人類に訴えかけています。



 

井伏鱒二『黒い雨』より

為体(えたい)の知れない影像(えいぞう)は、もしかすると異型の白血球かもしれないが、白血球だとすれば数が非常に多すぎると先生は云った。重松はこんな恐怖感をそそるような医学上の熟語はもう聞きたくなかった。ますます矢須子(やすこ)に対して負目(おいめ)を感じるばかりである。

矢須子が原爆病にかかったのは、黒い雨に打たれたためばかりでなく、まだ熱気のある焼跡の灰のなかを歩きまわったためもあるだろう。


被爆日記という形式を導入しながら、原爆の恐怖を描いた作品です。広島市で被爆した閑間重松(しずましげまつ)は、ともに暮らす姪の矢須子も被爆者だという誤解を解くために、当時の日記の清書をはじめます。彼女は直接被爆はしなかったが、避難する途中で放射能を含んだ「黒い雨」に打たれたことがわかります。



 

嵯峨信之『ヒロシマ神話』より

失われたときの頂にかけのぼって 何を見ようというのか 一瞬に透明な気体になって消えた数百人の人間が 空中を歩いている (死はぼくたちに来なかった) (一気に死を飛び越えて魂になった) (われわれにもういちど人間のほんとうの死を与えよ) その中のひとりの影が石段に焼き付けられている (わたしは何のために石に縛られているのか) (影を引き離されたわたしの肉体はどこへ消えたのか) (わたしは何を待たねばならぬのか) それは火で刻印された二十世紀の神話 いつになったら誰がその影を石から解き放つのだ


この詩は五連から成立しています。一連は、原爆で亡くなった人々の中も特に爆心地付近での死者を描いています。爆心地付近では、数千度の高温になり、あらゆるものが一瞬にして焼死してしまい、この高温によって人間も一瞬で燃焼して消滅してしまうという衝撃的なくだりです。この高温によって人間も一瞬にして消え、それはもはや「死」とは呼べない。「死」を迎えられなかった人々の魂は彷徨するしかないという叫びです。


二連は、この「死」を迎えられなかった人々の魂の声を私たちに伝えています。声の言葉「 」ではなく、心の言葉(  )で表現しています。(死はぼくたちに来なかった)と、消滅した一人ひとりの声が聞こえてきます。そして(われわれにもういちど人間のほんとうの死を与えよ)と、作者の主張となって訴えかけています。

三連は、数百人の魂の中から一人だけに焦点を絞って、石垣に焼き付けられた影について描いています。四連は、その一人のさらに悲惨な声を伝えています。手法は二連と同じですが、読者の心にすべてが迫ってくるようです。原爆を落とした側、戦争を始めた側、そして今を生きる私たちへの訴えとなっています。

五連は、集約として人類すべてに行動を呼びかけています。やがて二十世紀は終わるのに、原爆の危険は一向に減っていない。3度目の原爆被害を受けないと、誰が保障してくれるのか。「わたし」の影はまだ石段に焼き付けられているままだ、とこの五連に主題のすべてが集約されています。


改訂前の中学3年英語教科書(NEW CROWN-Lesson4より)



Have you heard about Sasaki Sadako

あなたは佐々木禎子について聞いたことがありますか。

Sadako was two years old when the atomic bomb was dropped over Hiroshima.

原子爆弾が広島に落とされたとき、禎子は2歳でした。

She suddenly became sick at the age of twelve.

彼女は12歳のときに、突然病気になりました。

She had hope.

彼女は希望を持っていました。

She believed, "It is possible for me to get well.

彼女は信じていました。「私は良くなる可能性がある。

I'll make a thousand paper cranes."

1000羽の折鶴を折ろう。」と。


Sadako died, but many people remember her.

禎子は亡くなりましたが、たくさんの人々が彼女を覚えています。

They make cranes for her and for peace.

彼らは彼女のため、平和のために、鶴を折ります。


You know a lot about Sadako.

あなたは禎子についてよく知っていますね。

I've visited a lot of web sites.

私はたくさんのウェブサイトを見てきたのです。

Look at this one.

このサイトを見てください。

What does it say?

そこにはどんなことが書いてあるのですか。

It says that books about Sadako are published in over 30 countries.

禎子についての本が30以上の国で発行されていると書いてあります。

So her story is known around the world.

だから彼女の話が世界中で知られているのですね。

That's right.

その通りです。

What are these?

これらは何ですか。

They're strings of paper cranes.

それらは折鶴の糸です。

We call them sembazuru.

私たちはこれらを千羽鶴と呼んでいます。

I remember.

思い出しました。

People all over the world make sembazuru and send to Hiroshima.

世界中の人々が千羽鶴を作り、広島に送ったのでした。

Right.

そうですね。


改訂前のNEW CLOWNの文章ですが、今年度改訂のTOTALの教科書にも佐々木禎子さんのストーリー(禎子の物語)は掲載されています。修学旅行で広島や長崎に行く学校も多いかと思われますが、8月は戦争や原爆についてしっかりと考えたいものです。



 



<佐々木禎子さんが生きた4675日> 佐々木禎子さんが生まれたのは太平洋戦争のさなかの1943(昭和18)17日です。わずか2歳で広島に落とされた原爆によって被爆しました。爆心地から1.6㎞しか離れていない自宅にいたときのことです。奇跡的にかすり傷ひとつ追わなかった禎子さんですが放射能を含む黒い雨を浴びていました。

その後、運動が得意な元気な少女に成長しましたが、被爆から9年後の1954(昭和29)秋に突然白血病であると診断され広島赤十字病院に入院しました。千羽鶴がお見舞いに届けられたことをきっかけに、「生きたい」「治りたい」、と強く願って千羽鶴を折り始めました

しかし、わずか8カ月の闘病生活の末、1955年(昭和30年)10月25日、家族が見守る中で禎子さんは12年の生涯を閉じました。病床には禎子さんが折った1300羽ほどの折り鶴が完成していたといいます。禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め、平和を築くための像をつくろうという運動が始まり、全国からの募金で平和記念公園内に「原爆の子」の像が完成しました。像のモデルは佐々木禎子さんと折り鶴です。この話が世界中に伝えられると、世界各地から折り鶴が捧げられ、広島平和記念資料館の資料によると、その数は年間1千万羽、重さにして約10トンにものぼるそうです。

佐々木禎子さん
白血病で入院する前の禎子さん(広島平和記念資料館)



原爆の子の像
禎子さんがモデルの「原爆の子の像」(広島平和記念公園)


また、絵本では『おこり地蔵』『ヒロシマのピカ』『禎子の千羽鶴』『折り鶴の子どもたち』『おりづるの旅』、小学生向けの文庫では『飛べ、千羽つる』、漫画では『はだしのゲン』、映画では『千羽鶴』(1958年公開DVD版あり)、などが広島の原爆やを題材にしています。

他にもまだまだあります。8月になると、やや大きめな書店では、「戦争・平和について考える」という特設ブースを設けている所があります。そういった書店は売上ということだけでなく、平和へのメッセージや問題意識を強く持っているため好感が持てます。ただし、戦争=悪、平和=正義、と単純に考えてほしくはありません。勧善懲悪的な判断ではなく、しっかりと特設ブースに並ぶ作品を読み、あなたなりに戦争・平和について考えてみてください。


戦争はいけない。それは当たり前です。繰り返さない。それは当然です。しかしいけないから備えない、繰り返さないから軍隊はいらない、これでは現実社会を正しく見つめているとはいえません。また歴史を学ぶ意味がありません

日本が建国以来、幾たびの侵略危機を乗り越え国家と皇室、民族と文化を失うことなく原始から現代まで続く唯一の国家となり得たのか。過去の戦争を反省し、戦後の日本が国際平和の構築のためどうような努力を続けてきたのか。その答えも歴史の中に隠されています。


参考映像:「広島原爆投下」※閲覧注意


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