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ソ連の日参戦~ソ連の戦争犯罪~

1945(昭和20)88日、ヤルタ会談の密約に基づいてソヴィエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄。89日午前0時、満州国北部の璦琿(あいぐん。現在の黒竜江省)にソ連軍機3機がアムール川(黒竜江)を越えて、満州国領空に侵入しました。国境監視所にいた関東軍第135独立混成旅団の安田重晴伍長は、「ソ連軍機、国境侵犯」の緊急報告を司令部に入れます。

関東軍とは大日本帝国陸軍に属する精鋭部隊で、日露戦争後、旧ロシア権益を引き継ぐ形で清国から租借(※実質的に領有)した関東州(遼東半島)の防衛、及び南満州鉄道附属地域の警備を目的とした関東都督府の守備隊が全身で、1919(大正9)に関東軍として独立しました。

司令部は初め遼東半島の旅順(りょじゅん)に置かれましたが、満州事変後は満州国の首都新京(しんきょう。現在の長春)に移転し、満州国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)をあやつり、絶対的支配者として君臨していました。なお、皇帝溥儀の弟愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)と嵯峨浩(さがひろ)夫人も満州国の皇族として新京にいました。余談ですが、溥傑と浩夫人は、新婚の頃に千葉市稲毛区の家屋(現在の千葉市ゆかりの家・いなげ)に居住しており、戦後夫婦でここを訪れています。 



関東軍司令部
新京の関東軍司令部



皇帝溥儀
皇帝溥儀と勤民殿(偽満皇宮博物院)


太平洋戦争(大東亜戦争)が始まると精鋭だった関東軍も、1944年(昭和19年)以降、多くの将兵が太平洋戦域に転属となり、戦車も重砲も航空機も太平洋戦域に回されたため、満州国に駐屯する部隊は櫛の歯が欠けたようなスカスカ状態でした。対米戦の苦境は聞かされていたものの、満州国内は戦火とは無縁で街も国境も平穏で、日ソ中立条約を結ぶソ連が満州に侵攻してくる可能性は低いと思われていました。

1945年(昭和20年)2月、クリミア半島のヤルタで、ソ連共産党書記長のヨシフ=スターリンは、アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトに対し、ドイツ降伏後の3カ月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦することを約束します。その見返りに南樺太と千島列島の引き渡し、及び満州国内の鉄道・港湾の権益を要求しました。この密約に従い、日本時間の8月9日午前0時、極東ソヴィエト連邦軍総司令官のアレクサンドロ=ワシレフスキー元帥率いる80個師団約157万人が三方向から満州国内に侵攻しました。 



ソ連の対日参戦(満州国侵攻)
ソ連軍の満州国侵入(産経ニュースより)



ソ連の対日参戦(朝日新聞)
当時の新聞(朝日新聞より)


スターリンは予定では811日の一斉攻撃を命じていましたが、86日の米軍による広島市への原子爆弾投下を受け、日本がソ連参戦前に降伏することを恐れたのか、あるいはアメリカを牽制しようと考えたためなのか、2日早めて9日に侵攻しました。ソヴィエト連邦はドイツ降伏以来、対日参戦準備を周到に進めており、シベリア鉄道を使ってT‐34などの主力戦車・自走砲5556両、航空機3446機をソ連-満州国境に配備していたのです。 



スターリンとソ連の対日参戦
ヨシフ=スターリンと攻撃する
ソ連軍


対する関東軍は、前述の通り主力部隊を太平洋戦域に転属されており、24個師団68万人、戦車約200両、航空機約200機にすぎず、彼我の戦力差は目を覆いたくなるほど歴然としていました

ソ連軍侵攻の報告を受けた関東軍総司令官の山田乙三(やまだおとぞう)大将は、8月9日午後に出張先の遼東半島大連(だいれん)から満州国の首都新京の関東軍司令部に戻り、皇帝溥儀に面会しました。

山田乙三大将
山田乙三関東軍総司令官

山田は皇帝溥儀に対して、関東軍司令部を近日中に満州国-朝鮮(日本領)国境に近い通化(つうか。現在の吉林省通化市)に移すことを告げ、満州国の首都と宮廷を通化近くの臨江(りんこう。現在の吉林省臨江市)に遷都することを命じます。

満州国の満人閣僚の中には新京に留まるべきと主張する者もいましたが、皇帝溥儀は8月13日に慌ただしく臨江近郊に移動しました。山田は関東軍と朝鮮軍(※朝鮮半島に駐屯する大日本帝国陸軍の部隊)と合流して持久戦に持ち込む考えだったようだが、在留邦人を置き去りにして撤退することには関東軍内にも相当の異論があったといいます

この当時、満州国内にいた軍人・軍属を除く在留邦人は約155万人いました。もともと何もない原野を都市に変え、満州国を築いてきたのは満蒙開拓団をはじめ在留邦人の努力があってのことです。この時期の在留邦人は、男性の大半が臨時召集令状(いわゆる赤紙)で兵役に就いていたので、女性や若年者や高齢者がほとんどでした。その人々の多くが突然のソ連軍の侵攻、関東軍の撤退に大混乱に陥り、避難経路が確保できないままソ連軍や中国人による殺戮(さつりく)で犠牲者を増やしたのです。


満州国西部を守備する第3方面軍司令官の後宮淳(うしろくじゅん)大将は、在留邦人が避難する時間を確保するため玉砕覚悟で部隊をソ連軍の侵攻経路に集中させようと進言しましたが、作戦参謀に玉砕するだけだと反対され断念しました。

結果論ですがソ連軍と中国人の在留邦人への大虐殺・大凌辱という犯罪行為の歴史的事実を鑑みると、関東軍や第3方面軍が早々と撤退せず後宮大将の作戦を実施していれば被害者や犠牲者が軽減していたかもしれません…。結果論ですが。 



後宮淳大将
後宮淳大将

戦況報告のために新京の関東軍司令部を訪れた独立歩兵78部隊第1中隊の秋元正俊少尉は、戦後に産経新聞の取材に対して「すでに司令官は通化に撤退したあとであり、数人の下士官が残っているだけで将校の姿はどこにもなかった。無責任にもほどがある」とこの時の光景を語っています。

さらに秋元少尉が属する中隊では、関東軍司令部からの命令で、ソ連軍戦車部隊に備え、総力をあげて布団爆弾攻撃(※10キロ爆弾を背負い地面に掘った穴に潜み、戦車が来たら体当たりをする特攻攻撃)の準備をしていました。それゆえ関東軍総司令官らが早々と自分たちだけで撤退したことに憤りを覚えたといいます。

さらに14日深夜、秋山少尉は上官の口から明日15日正午に大元帥陛下(※昭和天皇)の肉声放送があり日本の降伏が発表されると伝えられました。勝利をひたすら信じて戦ってきた戦友や太平洋戦域に転属となった同僚のことを思うと穏やかでなかったそうです。独立歩兵78部隊第1中隊は8月15日に新京で武装解除に応じました。


一方で武装解除を拒否して戦闘を続けた部隊もありました。最初に紹介した安田重晴伍長の属する関東軍第135独立混成旅団もその一つで8月22日になってようやく武装解除に応じました。

黒竜江省東端の虎頭(ことう)の日本軍要塞では、終戦後もソ連軍第2師団の攻撃を受け激しい戦闘を続けていました。関東軍第15国境守備隊1500名は、避難してきた約1500人とともに立てこもり、2万人以上の敵兵を相手に戦っていました。しかし、衆寡敵せず…8月19日深夜、約300名の邦人とともに主力陣地の守備隊は玉砕。他の陣地も次々と万歳突撃を敢行し、8月26日になって虎頭要塞はソ連軍の手に落ちました。終戦から11日後のことです。生存者は約50名で、これが関東軍の最後の組織抵抗となりました。


こののちも満州の在留邦人は想像を絶する苦しみを味わいます。ソ連軍の鬼畜性・残虐性は近代国家の中では際立っており、虐殺・凌辱・シベリア抑留など、その戦争犯罪は筆舌に尽くしがたいものがあります。現在もシリアでアサド政権を支持したりクリミア半島を武力併合したりと、ロシア人の本質はあまりこの頃と変わっていないのかもしれません。


1945年(昭和20年)8月12日、黒竜江省麻山(まさん)で満蒙開拓団約1000名が、ソ連軍に包囲され砲撃を受けました。集団自決した団員も多く、この麻山事件での犠牲者は400名を超えました。

ソ連軍の戦争犯罪は満州北東部の葛根廟(かっこんびょう)でも行われました。葛根廟は現在の中国内モンゴル自治区にある都市です。1945年(昭和20年)8月14日、日本に帰国するため避難してきた約1200名の満蒙開拓団の女性や子どもが、ソ連軍の戦車14両とトラック20両に遭遇しました。降伏を申し出た日本人に向けて、ソ連軍は機関銃掃射を行い、さらに逃げ惑う邦人を戦車でひき殺しました。この時の犠牲者は1000名を超え、そのうちの2割が子どもでした。これは葛根廟事件と呼ばれています。

この事件は第5練習飛行隊第1教育隊大虎山(だいこさん)分屯隊の偵察機が上空から目撃していました。激怒した隊員11名は、関東軍司令部からの武装解除命令に従わず、ソ連軍戦車部隊へ特攻攻撃を敢行しました。終戦の前日のことです。



 



「国破れて山河なし 生きてかひなき生命(いのち)なら 死して護国の鬼たらむ」



 



これは愛妻朝子夫人とともに特攻をかけた谷藤徹夫(たにふじてつお)少尉が残した辞世です。 



葛根廟事件と神州不滅特別攻撃隊之碑
神州不滅特別攻撃隊之碑(※谷藤徹夫少尉らの顕彰碑)


ソ連軍による戦争犯罪は吉林省敦化(とんか)でも起こります。関東軍の武装解除後の8月25日から27日にかけて、敦化の製紙工場を占領したソ連軍が、工場内に残っていた日本女性170名を監禁し、暴行や凌辱を続け、被害女性23名が絶望のあまり自殺した敦化事件です。

ソヴィエト連邦の対日参戦により、1932(昭和7)31日に建国された満州国(1934年の帝政移行後は満州帝国)は、大日本帝国の敗北により崩壊。8月18日に皇帝溥儀が退位詔書に署名し、日本が築いた「五族協和」の「王道楽土」は13年5カ月余りで消滅しました。

国策により満州の原野に理想郷を作るため入植した満蒙開拓団。1908(明治41)の満州の人口は約1585万人。1932(昭和7)の満州国建国時の人口は約2930万人。入植した日本人の数も増え続け、1940(昭和15)には200万人以上となっていました。それが大日本帝国の敗戦と満州国の崩壊により約245000名が命を落とし、無事に日本本土に帰還できたのは約127万人でした。(厚生労働省資料より)

ソ連軍の戦争犯罪はこれだけにとどまらず、満州や南樺太で武装解除した日本軍将兵約58万人がシベリアに送られ、強制労働に従事させられ5万人以上が寒さと飢えと病に倒れました。シベリア抑留です。抑留についてはスターリンが「50万人の日本人をシベリアに移送しろ」という極秘命令をしていたことが1992年(平成4年)の読売新聞で取り上げられ話題となりました。


中学校・高等学校の歴史教科書の記述では8月15日で戦争は終結したことになっています。しかし、実際は8月15日以降も戦闘が行われていたこと、多くの日本人が塗炭の苦しみを味わっていたことを忘れてはいけません 



シベリア抑留を指示したスターリン
スターリンのシベリア抑留指令(読売新聞より)

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