ポツダム宣言受諾
1885年(明治18年)に内閣制度が発足して以来、千葉県からは鈴木貫太郎(すずきかんたろう)と野田佳彦(のだよしひこ)の2名の内閣総理大臣を輩出していますが、千葉県公立高校入試によく出るのは鈴木貫太郎首相のほうです。今日は彼の波乱な生涯について国立国会図書館資料とNHKブック『天皇の側にいた男ー鈴木貫太郎ー』を引用しながら説明します。
<鈴木貫太郎の略歴>
関宿(千葉県野田市)藩士。1868年(慶応4年)1月14日、関宿藩の飛び地和泉国大鳥郡伏尾(大阪府堺市)で誕生。1871年(明治4年)に本籍地の千葉県東葛飾郡関宿町(千葉県野田市)に移住。海軍軍人で政治家。父は地方官吏。明治20年(1887年)海軍兵学校卒業。日清戦争に従軍。明治31年(1898年)海軍大学校卒業。日露戦争では日本海海戦に参加。海軍省人事局長、第二次大隈内閣海軍次官、海軍兵学校校長、呉鎮守府長官、連合艦隊司令長官などを歴任。大正14年(1925年)海軍軍令部長。昭和4年(1929年)侍従長兼枢密顧問官に就任。侍従長在任中の昭和11年(1936年)、二・二六事件により襲撃を受け、一命をとりとめるが辞職。昭和19年(1944年)枢密院議長、翌年首相となり。ポツダム宣言受諾後、総辞職した。
(参考:国立国会図書館HP 近代日本人の肖像)
<侍従長就任と二・二六事件>
1936年(昭和11年)2月26日未明に起きた二・二六事件は、「昭和維新」の名の下に天皇親政による軍部独裁国家の樹立を目指した、陸軍皇道派の青年将校によるクーデターです。26日未明、安藤輝三(あんどうてるぞう)大尉、栗原安秀(くりはらやすひで)中尉など、陸軍青年将校に率いられた約1500人の兵士が元老や政府要人・財界人を襲撃し、9人が殺害されました。襲撃部隊は首相官邸や警視庁など東京の中枢をわずか数時間で占拠。天皇親政を目指し国家改造を実現しようとしたこの行動は近代日本史上最大のクーデター事件と言われています。
当時、鈴木貫太郎は昭和天皇の側近の侍従長(じじゅうちょう)でした。銃剣を突き付けられても毅然とした態度の鈴木貫太郎に、4発の銃弾が打ち込まれました。もともと鈴木貫太郎は生粋の海軍軍人。日露戦争(1904年~05年)ではロシアのバルチック艦隊と砲火を交え日本軍の勝利に貢献。その後、鈴木貫太郎は連合艦隊司令長官そして海軍軍令部長を歴任。海軍トップにまでのぼりつめました。40年に及ぶ軍人としての人生の中で、鈴木には「軍人は政治には関与せざるべし」という揺るがない信念がありました。
ところが1929年(昭和4年)、宮中の重要な役職である侍従長に推挙され、思いがけなく天皇との縁が生まれます。見込まれたのは君側の忠、私利私欲なく天皇に仕えるであろう誠実な人柄でした。侍従長とは天皇の身の回りの世話をするのが役目ですが、それにとどまらず公私両面で天皇の相談相手になったり、首相や大臣が拝謁する場に同席したりするなど重要な職務を担いました。
しかし、二・二六事件の首謀者たちは、鈴木を「君側の奸(くんそくのかん)」、すなわち天皇の側で悪政を行う者、とみなしました。鈴木貫太郎は陸軍皇道派が目指す国家体制を破壊する重臣の一人として標的とされたのです。妻・たかは銃弾4発を撃ち込まれた鈴木貫太郎の胸や頭に手を当て無我夢中で止血にあたりました。しかし鈴木は血の海に浸かっているようで、駆けつけた医者が流れ出た血で滑って転ぶほどで一時は脈も絶えたと言います。
一方でたかは、宮中に鈴木貫太郎の大事を告げました。たかは幼少期の昭和天皇(※当時は迪宮(みちのみや))の教育係であったこともあり、いわば鈴木貫太郎夫妻は昭和天皇から特別に信頼され、愛された夫婦だったのです。
昭和天皇は襲撃部隊を反乱軍とみなし、「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」、「朕自ら近衛師団を率いて、此れが鎮定に当たらん」(侍従武官長の日記より)、と強い口調で断固鎮圧を命じました。その結果、二・二六事件は4日で収束しました。鈴木貫太郎は妻たかの素早い処置のおかげもあってか奇跡的に一命をとりとめました。しかし長くつとめた侍従長を退くことになりました。
昭和天皇
<首相就任>
1945年(昭和20年)8月15日、アメリカやイギリスなど連合国を相手に太平洋戦争を戦っていた大日本帝国は、連合国からのポツダム宣言を受諾し終戦を迎えました。実質、無条件降伏による敗戦です。同盟国のイタリア・ドイツは既に降伏し、8月6日広島に、9日長崎に、それぞれ原子爆弾が投下され、さらに同日ソヴィエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破って、日本が支配する満州国と南樺太・千島列島に侵攻しました。終戦に至るこのような大変な時期に内閣総理大臣となったのが鈴木貫太郎。
しかし、鈴木自身は首相就任の要請があった当初、再三固辞しました。すでに77歳という高齢で耳が遠いこと、そして何よりも「軍人は政治に関与せざるべし」、という信念が固辞の理由でした。その鈴木貫太郎に対し、直々に首相就任を懇願したのが昭和天皇でした。「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいなし。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい。」(侍従長の回想より)――天皇に頼むとまで言われた鈴木貫太郎は、「最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす」(総理大臣談話より)、とついに承諾。
昭和20年4月7日、第42代内閣総理大臣に就任しました。その頃、もはや日本の敗北は決定的。しかし、軍部の中には戦争を継続し、本土決戦に望むべきだという動きもありました。軍部がポツダム宣言受諾に反対して反乱を起こす可能性がある中、戦争をどう終わらせるかということは、非常に重く難しい問題でした。
<御前会議>
1945年(昭和20年)8月9日の朝、鈴木貫太郎は、帝城(皇居)の地下防空壕で開かれた緊急の御前会議に臨んでいました。議題は2週間前の7月26日に連合国側から突きつけられたポツダム宣言を受け入れるか否か。ポツダム宣言は日本に対する無条件の降伏勧告でした。連合国側は、連合国による日本占領や軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰などを強く求めていました。
日本はこの会議の3日前、広島に原子爆弾(ウラン型)を落とされ一瞬にして多くの市民が命を奪われています。さらに会議の日の未明には日ソ中立条約を一方的に破棄したソヴィエト連邦軍が、日本が支配する満州国に侵攻しました。日本はポツダム宣言受諾を本格的に検討しなければいけない状況に追い込まれていたのです。鈴木貫太郎を含め御前会議の出席者は、ポツダム宣言を受諾する以外に日本を救う道はないという点では一致していました。しかし、問題は受諾にあたって日本側から条件をつけるかどうかでした。
外務大臣の東郷茂徳(とうごうしげのり)から出されたのが、条件を1つだけに絞るべきだという意見。その1つとは国体護持。国体とは、大日本帝国憲法の下で神聖不可侵な万世一系の天皇を統治者と定めた皇国のあり方のことです。東郷の意見に反対した中心人物が陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれちか)でした。阿南は、国体護持は当然のこと、それに加えて連合国による占領は短期間かつ最小範囲。そして武装解除と戦争犯罪人の処罰は日本側が行う、という条件を主張しました。こうした条件をつけてこそ国体を守ることが可能だという考えでした。
会議の最中、2発目の原子爆弾(プルトニウム型)が長崎に投下されました。しかし、その情報が入っても議論は延々と続きました。鈴木貫太郎は、御前会議でポツダム宣言受諾の結論を導くことが出来ませんでした。そこで臨時閣議を開き、そこに議論の場を移しました。
しかし、ここでもポツダム宣言受諾の条件をめぐって東郷外相と阿南陸相が対立する構造は同じで、他の閣僚の意見も割れました。閣議が始まって6時間以上経っても合意には至らず、頼みの綱は昭和天皇の意志表示―すなわち聖断による決着でした。膠着した事態を打開するため鈴木貫太郎は御前会議を開き天皇臨席のもとで方針を決定しようとしました。
阿南惟幾陸相と鈴木貫太郎首相
<まことに畏れ多いことですが…>
日付が変わった8月10日午前0時過ぎ、異例の時刻に昭和天皇臨席のもとで御前会議が始まりました。しかし、2時間経ってもポツダム宣言を無条件で受け入れるか否か、国体は守れるのか、結論は出せません。ついに鈴木貫太郎は昭和天皇に決断(聖断)を仰ぎました。
本来、天皇は大日本帝国憲法のもとでは政府(内閣)の決定事項に対して裁可を行う存在でした。決定された事柄の責任は政府(内閣)が負うと定められ、天皇は無答責。つまり、責任を負わないとされていたのです。ポツダム宣言受諾という重大な政治判断を天皇に委ねることは、まさに異例でした。天皇の判断で戦争が終えられるのならば、なぜもっと早く終えられなかったのか。あるいはなぜ天皇の判断で戦争を止められなかったのか。そういった天皇の戦争責任を問う議論がのちのち起こる懸念があったからです。
沈黙を守り議論を聞いていた昭和天皇は、鈴木貫太郎に促される形で「わたしの意見は先ほどから外務大臣(※東郷茂徳)の申しているところに同意である。」(鈴木内閣書記官長の手記より)、と発言しました。天皇による聖断により、日本側から出す受諾条件は国体護持の1点にする方針が決まりました。それを受け大日本帝国政府は、連合国側に対し国体護持の条件が守られるのという了解の下にポツダム宣言を受諾すると通告し、その確認を求めました。
8月12日、連合国側から回答がありました。しかし、それは国体護持について具体的な回答をせず、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官の制限の下に置かれるものとす」、という文章を含んでいました。この時期、アメリカ政府は戦後の日本統治には天皇の権威を利用すべきという方針が固まっていました。だが、天皇を戦犯として処刑すべきと主張する中華民国やオーストラリアに配慮して、具体的な回答ができなかったのです。制限の下を意味する「subject to」という文字に陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれちか)は異議を唱えます。「天皇ノ上ニ統治者ガイルコトニナッテシマフ」、「コレ国体ノ根本的破壊ナリ」(陸軍省作成資料より)、と陸軍は不満をあらわにしました。
<畏れ多いことながら、再度の御聖断を…>
8月13日、再度最高戦争指導会議が開かれました。この日、鈴木貫太郎はそれまでの聞く姿勢を一変させ、「問題を故意に破局に導き以て継戦を強行するの下心ならん」(軍令部総長の日記より)、と明確に自らの意見を述べました。ポツダム宣言受諾に反対する意見を非常識とし強い言葉で非難し、宣言の受け入れを主張しました。実は会議に先立ち海外からの1通の緊急電報が鈴木貫太郎のもとに届いていました。それは連合国側からの回答文の作成過程を伝える内部情報でした。
そこには戦後の日本が人民主権に基づく西洋流の立憲君主制をとるべきことが記されていました。つまり、その制度ならば日本がポツダム宣言を受諾して降伏しても天皇制と皇室は存続を認められると確認できたのです。電報の内容は昭和天皇にも伝えられたはずです。天皇は、陸軍大臣の阿南を呼び出し「阿南、心配するな。自分には確証がある」(陸軍部『機密戦争日誌』)、と述べたと伝えられています。
8月13日の午後、臨時閣議が開かれました。その席でも阿南はポツダム宣言の即時受諾には同意しませんでした。それは当時、陸軍内部には戦争の継続を唱える主戦派があり、クーデターによる軍部主導の政権樹立も辞さない強硬な構えだったからです。中堅将校たちは阿南陸相のもとに押しかけ、「もしもポツダム宣言受諾を阻止できなければ大臣は切腹すべきである」(陸軍大臣秘書官の手記より)、と迫ったそうです。
8月14日、鈴木貫太郎は昭和天皇に御前会議の開催を願い出ました。天皇は承諾し、軍部によるクーデター計画を防ぐため自ら御前会議の時間を繰り上げました。昭和天皇と鈴木貫太郎の考えは一致していました。午前11時過ぎ、再び御前会議が開かれ、鈴木貫太郎は天皇に再度の聖断を仰ぎたい旨を述べました。鈴木の発言を受け、昭和天皇は「自分の先般の考えに変わりはない。国体に動揺を来すというがそうは考えない。戦争を継続することは結局国体の護持も出来ずただ玉砕に終わるのみ。どうか反対の者も自分の意見に同意してほしい」(鈴木内閣閣僚の手記より)、と発し、日本はポツダム宣言受諾の結論に辿り着きました。
阿南陸相も受諾を認めたのです。主戦派の陸軍中堅将校たちの怒りは爆発しましたが、阿南の意思は揺らぐことはありませんでした。終戦の詔書に阿南も陸軍大臣として署名しました。本当のところ阿南は、鈴木内閣の一員として陸軍大臣に就任したあと、その胸中を「自分の立場は苦しい。苦しいのであるけれども、必ず鈴木総理と進退を共にするのだ。また日本を救い得るというのは、どうみても鈴木内閣以外にないように思う」(鈴木内閣閣僚の証言より)、と語っていました。
8月14日夜、阿南は鈴木首相のもとを訪れ、「終戦についての議が起こりまりて以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください。」(鈴木内閣書記官長の手記より)、と謝罪しました。
鈴木は、「それは最初から分かっていました。私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、私は日本の未来を悲観はしておりません。」(同)、と答え、阿南は「私もそう思います。日本は必ず復興するでしょう。」、と応じて一礼して鈴木のもとを去りました。阿南が去ったあと鈴木は、「阿南君は暇乞い(いとまごい)に来たんだね」(同)、と述べています。今生の別れを告げに来たことを理解していたのです。阿南は御前会議でたびたび対立した東郷外相のもとも訪れ、色々世話になったと礼を述べて去りました。
翌15日払暁、阿南は天皇のいる宮中に向かい割腹、自決しました。遺書には「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」、と書かれていました。阿南自決の報告を受けた鈴木は、阿南を「真に国を思ふ誠忠な人でした」、と評しました。またのちに、「本心では和平を請い願いながらも陸軍の若手の暴発を懸念し、これを抑えるため陸相が心にもない挙措(※ポツダム宣言受諾をめぐり反対し続けたこと)をとったことが度々あったように思う」(鈴木首相秘書官の手記より)、とも述懐しています。
1945年(昭和20年)8月15日 終戦。
鈴木貫太郎は、阿南を除く閣僚全員の辞表をとりまとめ昭和天皇に奉呈。内閣総辞職しました。その鈴木貫太郎を天皇は、「御苦労かけた」、と労いました。昭和天皇は自らの聖断で戦争が終わったことに触れ、「私と肝胆(かんたん)相(あい)照(てら)した鈴木であったからこそこのことが出来たのだ」(侍従長の回想より)、とのちに語ったと言います。
<戦後の鈴木貫太郎>
戦後、鈴木貫太郎は全ての公職から退き、本籍地の千葉県野田市関宿で妻たかと余生を送りました。そして終戦から3年経った1948年(昭和23年)4月17日、鈴木貫太郎は満80歳で亡くなりました。鈴木は死の床で妻たかに背中をさすられながら、「永遠の平和 永遠の平和」、とつぶやいたと言います。実相寺(関宿市)にある鈴木家の墓で、鈴木貫太郎はたかと眠っています。彼は生前に自らの戒名を決めていたといいます。その中には「尽忠」の文字があります。死してなお昭和天皇と国家に対して誠心誠意を尽くすという意味が込められているかのようです。千葉県が誇る偉大な内閣総理大臣・鈴木貫太郎。しっかりと覚えておいてください。

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