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8月15日以降の南樺太・千島列島での戦い ~ソ連の戦争犯罪

太平洋戦争(大東亜戦争)当時、北緯50度以南の樺太と千島列島全域は大日本帝国領でした。千島列島は1875(明治8)樺太・千島交換条約で全島が日本領となり、南樺太は1905(明治38)に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で当時のロシア帝国から割譲され日本領となりました。
開戦当初、同地域の防衛は北部軍の担当でしたが、1942(昭和17)10月に対米作戦を目的に、西部アリューシャン列島(※アッツ島やキスカ島があるあたり)に新たに北海守備隊が編成されました。北方海域における米軍の反撃は、1943(昭和18)5月のアッツ島攻撃に始まり、日本軍キスカ島撤退後は北千島―
得撫島(うるっぷとう)から占守島(しゅむしゅとう)まで―が最前線となったので、1944(昭和19)5月に第91師団が幌筵島(ぱらむしるとう)に配備されました。
樺太方面は、従来の樺太混成旅団を基幹とする樺太兵団が第88師団に改編されました。ややマニアックになのですが、要は千島列島の大日本帝国最北端の占守島(しゅむしゅとう)には幌筵島の第91師団隷下の第73旅団が配備され、南樺太には第88師団が配備されたということです。
 



樺太・占守島の位置
樺太・占守島の位置

1945年(昭和20年)8月8日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソヴィエト連邦軍が、満州国・朝鮮に侵攻を開始したので、大本営はただちに関東軍、支那派遣軍、第五方面軍に対し、対ソ戦を発令しました。南樺太へのソ連軍の本格的侵攻は8月11日から始まりましたが、占守島(しゅむしゅとう)には終戦後の8月18日に奇襲攻撃を加えてきました。



南樺太と千島列島における対ソ戦の特色は、815日の終戦後もソ連による領土拡張を目的とする一方的な侵略が継続されたことにあります。そのため女性や高齢者を含む非戦闘員に多くの犠牲者が生まれました。特に戦後の57万人に及ぶシベリア抑留と多数の犠牲者は、ソヴィエト連邦の戦争犯罪として認識されています。 



ソ連軍の南樺太・千島侵攻
終戦後のソ連軍による対日侵略(産経ニュースより)

 



<占守島(しゅむしゅとう)の戦いの概要>



89 ヨーロッパ戦線の終戦に伴い、ソ連軍はシベリア鉄道で150万人を超える兵力をソ満国境に集結。その大兵力が満を持して北満州・朝鮮北部、南樺太への攻撃を開始。大本営は直ちに関東軍と支那派遣軍及び第五方面軍に対ソ作戦の発動を下命。

8月15日 昭和天皇が終戦の詔書をラジオ放送(玉音放送)で伝え各地の日本軍は戦闘を中止。同日、ソヴィエト連邦の最高指導者であるヨシフ=スターリンは極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥に千島列島奪取を命令。

8月17日 第五方面軍司令官は「一切の戦闘行動の停止、ただしやむを得ない場合自衛行動は妨げず、その完全徹底の時期を18日16時とする」と下命。この日から武装解除を順次進め武器弾薬などの処分を開始。信管を外したり、重砲や無線機を撤去、戦車を海中投棄する準備が進められます。

8月18日 午前1時30分過ぎ、対岸のロパトカ岬のソ連軍長射程砲の射撃が開始された。午前2時頃には国端崎(こくたんさき)監視哨から独立歩兵第282大隊(※通称は村上大隊)本部に「海上にエンジン音聞こゆ」との至急報が入る。村上大隊長はただちに部隊に戦闘配置につくよう下命。ソ連の駆逐艦及び輸送艇14隻が来襲、数千人のソ連兵が竹田浜(たけだはま)から上陸を開始し、竹田浜を挟むように設置されていた日本軍の砲台は、敵兵に猛烈な砲撃を浴びせました。

撃沈や大破した上陸艇は13隻以上となり、戦死傷者が相当数となったソ連軍は大混乱に陥ったが、海岸線を突破したソ連軍は、四嶺山(しれいざん)を包囲し接近戦闘(※白兵戦)を展開。武装解除から急きょ戦闘可能な状態に復した戦車第11連隊の各車両は連隊長池田末男(いけだすえお)大佐の指揮のもと四嶺山に進出し、戦車27両を失うもののソ連軍に勝利し、撃退に成功

第五方面軍は、予定通り18日午後4時をもって攻撃を中止し、防御に徹したといいます。この時刻以降、日本軍は攻撃を中止しますが、ソ連軍は戦闘をやめなかったため、随所で小戦闘が続きました。竹田浜の戦いで池田連隊長以下96名の将兵が戦死しました。818日、終戦から3日後の戦死でした。 



池田末男大佐
池田末男大佐



※池田連隊長は豪勇の反面、花が好きで幕舎には色とりどりの草花が植えてあったといいます。彼が指揮した戦車第11連隊は、「十一」を合わせて「士」、通称「士魂(しこん)部隊」と呼ばれた精鋭でしたそして池田大佐は戦車の神様と呼ばれていました。現在、北海道を守る陸上自衛隊の戦車部隊も、戦車に「士魂」とペイントされており、池田大佐の魂が受け継がれています。

8月19日 師団は戦闘を停止し、停戦交渉を開始。 

8月21日 停戦交渉に双方合意。23日~24日にわたり日本軍武装解除。


以上のように、占守島の第91師団は、ソ連軍の攻撃が続く中で終戦の詔書に従い軍使派遣、停戦交渉と進め、821日にようやく戦闘が終わりました。その後、武装解除が823日と24日に行われました。

この戦闘で、一説には日本軍の死傷者は700名~800名に及び、ソ連軍は3000名以上の死傷者を出したと伝えられています。ロシア研究所のボリス=スラヴィンスキーの著書『千島占領
一九四五年夏』によれば、日本側死傷者は
1,018名、ソ連側死傷者は1,567名となっています。

当時のソヴィエト政府機関紙の『イズベスチア』には、「占守島(しゅむしゅとう)の戦いは満州、朝鮮における戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。八月一九日はソ連人民にとって悲しみの日である」と書かれています。 



占守島の九七式中戦車
占守島に遺棄された日本軍戦車

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<南樺太の戦い>



南樺太防衛を担当する第88師団は、歩兵第125連隊を国境付近に配備し、歩兵第126連隊を恵須方面、歩兵第25連隊を豊原北方に配備していました。



樺太の日露国境碑
北緯50度に立つ日ソ国境碑
ソ連軍の南樺太・千島侵攻
ソ連軍の南樺太・千島侵攻 (産経ニュース)

8月9日 午前0時、ソヴィエト連邦が対日参戦。早朝の国境付近ではソ連軍の偵察や小規模な砲撃が始まる。歩兵第125連隊は、直ちに北上して国境南方12㎞の八方山及び師走台の国境陣地への配備を完了します。

8月11日 ソ連第56狙撃軍団の本格的攻撃が、早朝5時から始まり、中央軍道方面には第79狙撃師団主力が、戦車旅団の支援のもとに半田方面へと南下し、東部の武意加方面は第179狙撃連隊が進撃を開始しました。

半田付近の戦闘―中央軍道方面のソ連軍は、第165狙撃連隊を第1線として、国境の半田陣地へ攻撃を開始。半田陣地は、泉澤少尉と大国少尉の2個小隊に国境警備隊を加えても100名に満たない小兵力でしたが、湿地障害で進路を道路に制約された経路上に火力を集中させ、翌12日の朝まで陣地を死守し、丸1日ソ連軍の攻撃を阻止して、緒戦を勝利しました。

8月12日 武意加・古屯方面及び西海岸安別陣地の戦闘―国境主陣地の八方山と師走台方面は、ソ連軍偵察部隊との接触程度であり、東側の側道方面の第179狙撃連隊は、岡島小隊が守る武意加陣地を迂回して湿地帯を通過し、国境主陣地南方の古屯を直接攻撃しました。

古屯には、山鹿大尉が指揮する700名が警備に就いていましたが、軽機関銃若干と小銃50余という軽装備のため、正午近くから始まった第179狙撃連隊の攻撃を阻止できず、夕刻には気屯へと後退しました。

西海岸は、安別の国境陣地に配置されていた安別派遣隊(※第6中隊)が、連隊命令で自習的に飛龍へ後退しますが、14日には萩原・立花・佐藤伍長の三斬込隊が反撃し、挺身奇襲で戦果を挙げました

8月13日 主陣地(八方山・師走台)の戦闘―早朝から始まったソ連第56狙撃軍団による主陣地への攻撃は、第165狙撃連隊と第214戦車旅団が、約1時間の射撃の後に南下を開始し、古屯方面からは武意加を迂回した第179狙撃連隊が北上しました。激戦となった主陣地正面の師走台は、日本軍第1大隊が確保しましたが、中央軍道は日本軍の速射砲ではソ連軍戦車を阻止できず突破されました。

8月14日 古屯付近の戦闘―14日の主陣地正面は、第1大隊の奮戦でソ連軍の進撃が停止していました。古屯方面は、連隊命令で気屯から北上した黒田中尉が指揮する第2及び第12中隊が、朝霧の晴れるのを待って攻撃しました。攻撃は待ち構えていたソ連軍の反撃で失敗しましたが、携帯兵器だけで進出したソ連軍も苦戦したため、進撃を中止して態勢整理を行いました。連隊長の小林貞治(こばやしさだはる)少佐は主陣地の第1連隊を古屯に前進させましたが、戦闘になる前に終戦を迎えました。

8月15日 国境付近の戦闘が膠着して、古屯では小林大隊の上村伍長が指揮する連帯砲が敵戦車7台を破壊するなど、激闘が続いていました。正午、「終戦の詔書」が放送(※玉音放送)されましたが、南樺太におけるソ連軍の本格的攻撃が始まったのは、それからでした。

8月16日 塔路・恵須取付近の戦闘―敵軍に包囲された古屯の小林大隊は、第179狙撃連隊と戦車1個大隊の攻撃に少ない兵力でよく耐えていましたが、夕刻には陥落しました。同じ頃、同じく寡兵で第165狙撃連隊と戦車2個大隊という敵主力の攻撃に耐えていた幌見峠も陥落。戦闘は敷香~塔路以南に移りました。

塔路は早朝からソ連軍の空襲と艦砲射撃に晒され、市街のほとんどが焼失しました。砲撃に続きソヴィエト海軍歩兵第365大隊と第1922狙撃大隊が上陸。国境警察隊や義勇兵が応戦しましたが夕刻までに全滅しました。阿部庄松塔路町長は、自ら軍使となってソ連軍との交渉にあたりましたが非道にも射殺され、さらに塔路町から山間部などへ逃れた多くの避難民が、機銃掃射や無差別爆撃で虐殺されました。戦場は恵須取方面へと広がり、同日夜に最高司令官に命じられた吉野少佐が停戦交渉のために着任しましたがソ連が武装解除と停戦に応じたのは24日になってからのことです。

8月20日 歩兵第25連隊主力が守る真岡方面は、20日早朝にソ連海軍の艦砲射撃のもと魚雷艇による上陸が行われました。ソ連は各所で無差別爆撃を加え午後2時までに真岡市街を占領しました。大隊長は終戦から5日経過しているので、ソ連軍が平和に進駐するであろうと予測して軍使を派遣しましたが、軍使一行17名は荒貝澤でソ連側の指示に従い武器を置いたところを自動小銃で射殺します。軍使射殺の報告を受けた大隊長は、止むを得ず自衛戦闘許可の指示を出しました。

8月21日 真岡近郊では物量に勝るソ連軍の一報的な攻撃が22日まで続きました。

8月22日 知取町ではソ連側と停戦協定が成立した後もソ連軍の攻撃が続きました。豊原では夕刻、ソ連軍機による空襲があり多数の死傷者と大火災が発生しました。この日は引揚げ船の小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3隻が北海道留萌(るもい)沖でソ連海軍潜水艦の魚雷攻撃で沈没や大破し、1700名以上の死者を出しました。

8月23日 豊原にソ連軍が侵攻し、住民と避難民に対して暴行と略奪の限りを尽くしました。大泊に入港した最後の引揚げ船の宗谷丸、春日丸には、待機していた約10,000名の引揚者が乗船し、午後10時に出航、翌朝無事に北海道稚内(わっかない)港に入港しました。

8月25日 ソ連軍が大泊に上陸を開始。当時、大泊には引揚げ船に乗れなかった約20,000名が足止めされていましたが、ソ連兵による民間人に対する暴行・略奪が頻発しました。

8月28日 22日の師団停戦命令で武装解除が行われ、28日に樺太の全部隊の武装解除が完了しました。しかし、その後もソ連兵による不当虐殺や暴行・略奪が各地で頻発し、想像を絶する悲惨な景状を呈しました。


<真岡郵便電信局事件>



1945(昭和20)820日早朝、樺太真岡沖にソ連海軍艦艇が現れて艦砲射撃を開始。魚雷艇によるソ連軍の侵入で市街は戦場と化しました。

真岡郵便局では高石ミキ電話主事補、可香谷吉田志賀渡辺高城松橋伊藤沢田17歳~24歳の電話交換手9名が任務に携わっていましたが、交替準備が整わないことを知り、日本軍の作戦通信や避難民の連絡のため非常な覚悟で残留を申し出ました。

その後、窓越しに砲弾が炸裂し、ソ連兵の姿も見えて刻々と迫る身の危険に覚悟を決し、交換台に向かって「皆さん、これが最後です、さようなら、さようなら」との言葉を残し全員服毒自決して、その崇高な使命を終えました。北のひめゆり事件とも呼ばれるこの悲劇については後日、またお話しようと思います。『樺太1945年夏 氷雪の門』という映画にもなりました。

終戦後にソ連軍が行った侵略戦争―占守島の戦い、樺太の戦い―と、その中でおきた真岡郵便電信局事件の悲劇。小学校・中学校・高等学校の教科書には書かれていませんが、ソ連軍が国際法に違反した結果、8月15日以降も太平洋戦争(大東亜戦争)は続いていたということを、忘れてはならないと思います。

真岡郵便電信局の乙女たち
真岡郵便局の乙女

真岡郵便電信局事件の石碑
真岡郵便電信局事件の石碑
参考映像:「樺太1945年夏 氷雪の門」予告


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