日米和親条約の締結交渉は幕府外交の勝利
下田旅行にいった生徒から「下田黒船来航バターサブレ」のお土産をいただきました。ありがとうございました!!そこで今日はペリー来航と日米和親条約の締結交渉についてお話します。
下田黒船来航バターサブレ
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」
教科書や資料集にも掲載されるこの狂歌。黒船来航の際に詠まれたものです。とても有名ですよね。中学3年生以上の方なら誰もが1度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
「上喜撰(高級茶)はカフェインの作用で四杯飲んだだけで夜眠れなくなるよ」という表向きの意味と、「わずか四杯(※当時は杯で数えた)の蒸気船によって鎖国を続けられないほど国内が騒乱し夜も眠れないでいる」とかけて幕府を皮肉っているのです。
この狂歌のイメージが独り歩きしてしまい、無策無能であったかのような負のイメージが幕末期の幕府にはつきまといます。しかし、それは真実なのでしょうか?
江戸幕府がマシュー・カルブレイス・ペリーと結んだ日米和親条約について、小学校や中学校の社会科授業、あるいは図書室にある漫画『日本の歴史』などで見聞きするのは、浦賀(神奈川県)に突如現れた黒船に泰平の眠り(※鎖国中)にあった幕府首脳は驚き、あたふたするばかりで何もできない状態で、開国させられたという受け身的なとらえ方をしています。
ここまで極端でないにせよ、多くの人が日米和親条約はアメリカの軍事的圧力に屈した江戸幕府が鎖国を続けられず開国させられた条約と否定的(受動的)にとらえているのではないでしょうか。
「米船渡来旧藩士固之図」(東京大学史料編纂所蔵)
実は、来航の1年以上も前にオランダ国王ウィレム2世から幕府にペリー艦隊の寄港が予告されていたため、幕府はアメリカについての情報収集と分析を始めていました。さらにぺリー再来航までの1年間に、アメリカについての研究が進み、ある程度の準備が整った状況で条約交渉に入っているのです。
黒船に揺れた1年間を日米双方に残された資料から検証すると、「無策無能な幕府」の姿はありません。むしろ条約交渉で譲歩したのはペリー側であり、幕府の外交交渉がとても優秀だったおかげで、軍事的劣勢であった日本がアメリカを妥協させることに成功したのです。日米和親条約は一門の大砲も火を噴かず、平和的な交渉によって結ばれた世界史的にも非常に稀有な、戦争によらない平和的な条約という画期的な事例だった、という側面からお話します。
日米和親条約は列強と非列強の条約としては史上初の「交渉条約」でした。「交渉条約」とは何なのか。日米和親条約が締結された1854年(嘉永7年)当時の国際社会は、以下4つのグループに大別できます。
(1) 列強…イギリス・フランス・アメリカ・オランダなど、産業革命に成功し、資本主義経済と帝国主義外交を導入する西洋諸国です。市場と資源を求めてアジアやアフリカを植民地支配する国々。列強同士は対等関係。
(2)植民地…タイを除く東南アジアやインドなど。豊富な資源と市場があるため列強のターゲットにされた国々。立法権・行政権・司法権のすべての権利を喪失し、その改正には約200年の歳月を費やした。
(3)敗戦条約国…清国(中国)やオスマン帝国(トルコ)。清国はアヘン戦争に敗れ、懲罰として賠償金を支払い、領土を割譲あるいは租借され、司法権と行政権の一部を喪失。その改正には約100年の歳月を費やした。
(4) 交渉条約国…日本。戦争に敗れていないので懲罰なし。1858年の日米修好通商条約で司法権と行政権の一部を喪失。片務性や条約の期限がないのが特徴だが、改正は40年足らずで成功。
航空機のない時代、国家間の強弱は海軍力で決まりました。ペリー艦隊が浦賀に上陸した1853年(嘉永6年)当時、蒸気船や反射炉を持たない日本が列強諸国と戦争をした場合、敗戦条約国になりかねませんでした。
しかし、ペリーが再来日する約1年間のあいだに幕府はアメリカについて徹底的に調べあげます。諸藩に命じて江戸湾岸の警備など国防の強化を図りました。そして限界はあったものの対話による国交樹立と通商回避に成功したのです。それまで列強諸国がアジア・アフリカで見せてきた棍棒外交(※軍事力を背景に恫喝する外交)とは一線を画し、交渉条約国という新しい国際秩序を確立したことが日米和親条約の画期的な点といえます。
<ペリー来航をもう少し詳しく>
1853年(嘉永6年)6月3日、マシュー・カルブレイス・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊(※いわゆる黒船)がまず久里浜(神奈川県)に来航しました。ペリー来航は、1年以上前にオランダ国王ウィレム2世からの勧告がありました。また、直前に琉球王国(沖縄県)に上陸しているため、ペリー艦隊の目的や陣容は長崎奉行や薩摩藩からもたらされる情報によりおおよそつかんでいました。
当時の久里浜は砂浜海岸のため黒船を停泊させる港がありません。そこで幕府は艦隊を浦賀(神奈川県)に回航させ、上陸を許可しました。この時、12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)が病床にあったため、幕府はアメリカ大統領ミラード・フィルモアの国書を受け取りペリーに翌年の回答を約束し、日本から退去させます。翌年正月に再びペリー艦隊が来航し、条約交渉が始まりました。
アメリカ側は「和親(※親睦)」「通商(※貿易)」「石炭等の補給」「アメリカ人漂流民の保護」の4点を目的にしていました。老中首座阿部正弘(あべまさひろ)は戦争にならないように最善を尽くし、その上で「通商(※貿易)」は避ける方針で臨みました。
交渉にあたったのは幕府応接掛(おうせつがかり)の面々で、筆頭は林大学頭(はやしだいがくのかみ)、名前は韑(あきら)です。林羅山(はやしらざん)から数えて林家(りんけ)11代目にあたります。林大学頭は朝鮮通信使の応接や、オランダ国王ウィレム2世の親書に漢文で返書を書くなど外交面で活躍していた人物です。この他、浦賀奉行井上覚弘(いのうえさとひろ)、伊沢政義(いざわまさよし)、鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)、松崎柳浪(まつざきりゅうろう)が応接掛に任命されました。
ペリーと林大学頭とのやりとりは次の通りです。実際のやりとりは日米双方のオランダ通詞(※オランダ語の通訳官)を介して行われましたが、ここでは日本語で記します。最初のやりとりは漂流民の扱いについてでした。
ペリー 「我が合衆国は以前より人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもちろん国交の無い国の漂流民に対しても手厚くもてなしてきた。しかしながら貴国は人命を尊重せず、日本近海の難破船を救助せず、海岸に近寄ると砲撃し、日本へ漂着した異国人を罪人として扱い投獄する。さらに日本人民を我が人民が救助して送還しようとしても受け入れない。自国人民を見捨てているように見受けられる。いかにも道義に反する行為である。」
林大学頭 「我が国の人命尊重は世界にも誇れるものだ。この三百年に渡り泰平な世が続いたのも、人命を尊重したためである。次に大洋で異国船の救助ができないのは、国法によって大船の建造を禁じてきたためだ。次に異国船が我が国近海で難破した場合は、必要な薪水食料に加え十分な手当てをしてきた。異国船を救助しないというのは事実に反し、漂流民を罪人として扱うというのも誤りである。漂流民は手厚く保護し、長崎へ廻送したのちオランダカピタン(※オランダ商館長)を通じて送還している。」
ペリーは林大学頭の反論を受け、自説を取り下げました。そして話題を「通商(※貿易)」に転換します。
ペリー 「それでは、交易の件について、なぜ貴国は承知されないのか。そもそも交易は有無を通じ、(貴国の)国益にかなうものであるからぜひともそうあってもらいたい。」
林大学頭 「交易が有無を通じて(我が国の)国益にかなうと貴殿は申すが、日本国においては自国の産物は十分に足りており、異国の品がなくても少しも事欠かない。従って交易を開くことはできない。先に貴殿は、第一に人命の尊重と難破船の救助と申された。それが実現すれば貴殿の目的は達成されるのである。交易は人命と関係ないのではないかな。」
ペリーの交渉術を逆手にとって林大学頭が論破したのです。ペリーはしばらく沈黙し、いったん別室に下がったとあります。そして一人考えた末に再び交渉テーブルに戻ってきて答えました。そして、アメリカ合衆国が清国と交わした交易を定めた条約文(※1844年望厦(ぼうか)条約)の写しを林大学頭に、参考までにと手渡しました。
ペリー 「(貴殿の言うことは)もっともである。我々の来航目的は申したとおり、人命尊重と難破船の救助が最優先である。交易は国益にかなうが確かに人命尊重とは関係がない。交易の件は無理に主張するのはやめよう。」
こうして林大学頭は交易(※通商)の回避に成功しました。幕府は、ペリー艦隊が江戸湾での測量や小銃の発砲といった挑発行為をしても、砲撃したりせず江戸湾を警備する諸藩兵にも、発砲を自重させました。これは幕府がアヘン戦争についての情報を収集し細かく分析していたからに他なりません。
幕府はオランダ商館長(カピタン)を通して清国の惨状をつぶさに集めていました。すでに天保の改革で薪水給与令(※漂着した異国船に燃料や食料を供給する)を出していたのもこのためです。アメリカに戦争の口実を与えないことが徹底されたのです。これは高度な外交能力といえます。
<日米和親条約(抜粋)>
一、 日本と合衆国とは、其(そ)の人民永世不朽の和親を取結び、場所・人柄の差別これ無き事。(日本とアメリカ合衆国とは、両国人民が永久に変わることのない和親条約を結び、場所や人で差別をしないこと。
二、 伊豆下田(いずしもだ)・松前地箱館(まつまえちはこだて)の両港は、日本政府に於(おい)て、亜墨利加船(あめりかせん)薪水(しんすい)・食料・石炭欠乏の品を、日本にて調(ととの)い候(そうろう)丈(じょう)は給(きゅう)し候(そうろう)為(た)め、渡来の儀(ぎ)差し免(ゆる)し候。…(伊豆下田と松前箱館の2港は、アメリカ船の欠乏している薪・水・食料・石炭などの品を、日本側によって調達して供給するので、来航を許可する。
※下田・函館の開港により、鎖国が終了。いわゆる「開国」です。
三、 日本政府、外国人へ当節亜墨利加人(あめりかじん)へ差し免(ゆる)さず候(そうろう)廉(かど)、相免(あいゆる)し候節(そうろうせつ)は、亜墨利加人(あめりかじん)へも同様差し免(ゆる)し申すべし。
右に付(つき)、談判(だんぱん)猶予(ゆうよ)致さず候(そうろう)事(日本政府が、アメリカ以外の外国人に対し、現在アメリカ人に許可していないことを許す場合は、アメリカ人にも同様に許可し、このことについては許可談判に時間をかけない事。
※アメリカに片務的最恵国待遇を与えるという内容です。
ペリーはこの時の様子を著書『日本遠征記』に記しました。ペリーはもともと1851年にウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に宛てて独自の日本遠征計画をレポートしています。
(1)開国には軍艦4隻が必要でそのうち3隻は大型蒸気船であること。
(2)日本人に近代国家の海軍力を見せつけ軍事力の優劣を認識させること。
(3)清国に対したのと清国に対したのと同様、日本人に対しても恐怖に訴えるほうが友好を訴えるよりも実利が大きいこと。
(4)オランダが妨害する可能性があるため長崎での交渉は避けること。
以上4点を報告しました。しかし、ペリーは日本遠征を前に、フィルモア大統領の国書のほか、合衆国政府の指示としてコンラッド国務副長官からケネディ海軍長官宛の書簡を受け取っており、対日交渉にあたっての注意事項を受けていました。交渉の優先順位は、
(1)漂流民と難破船の救助と保護。
(2)避難港と石炭補給所の確保。
(3)通商の取決め。
となっています。従来は、優先順位は三番目だったため譲歩したと解釈されてきましたが、近年、日本滞在中のペリーが妻に宛てた手紙が発見され話題になりました。
清国など他のアジア諸国と異なり、林大学頭をはじめ幕府の侍たちが圧倒的なアメリカ軍事力を前にしても、一歩も引きさがらず、堂々と筋を通して交渉してきたことへの感心。侍への警戒。交渉失敗の不安。無事に帰国できるかは神の加護次第。ペリーの心中は不安でいっぱいだったようです。
またペリーの著書『日本遠征記』には、日本人の礼儀正しさと長い歴史と独自の文化への憧憬などが書かれており、ペリーが日本国と日本人に対して好印象を持っていたことが分かります。ペリーが武力に訴えてでも日本を開国させるという手段には出なかったのも納得なのです。もちろんこれは幕府の接待や交渉力、さらには武家政権としての徳川幕藩体制があってのことです。教科書記述にあるような、幕府がただ黒船の圧力に屈して開国したというのは誤りなのです。
浦賀や横浜の庶民はというと、漫画『日本の歴史』などでは、荷物をまとめて大慌てで避難する様子や、黒船が放つ空砲の轟音に腰をぬかすような描写が見受けられますが――実際は、好奇心旺盛な庶民たちは、見物に余念がなかったようです。「遠眼鏡」を持って見物にくる一行や、「見物無用」の立て札を無視して見学する人々が『幕末風俗絵巻』に描かれています。中には勝手に船を出してアメリカ人と接触する者もいたようです。(『岩波講座日本通史16巻』収録)
品川湊の人工島造営作業
教科書で習う歴史は「学習指導要領」に基づいた定説に過ぎません。大学や大学院などに進み、より深く専門的に研究するとまったく異なる歴史に出会います。さらに新たな資料の発見などで通説が覆されることもしばしばです。「歴史は生きている。」―だから歴史は面白いのです。

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