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『枕草子』と『源氏物語』では月見の捉え方が正反対

うだるような暑さが少しずつ和らぎ、夜にはスズムシやマツムシの鳴き声が聞こえるなど、季節は夏から秋へ移ろってまいりました。旧暦では9月のことを長月(ながつき)といいます。夜が長い夜長月(よながつき)から生まれた異名ですが、秋分の日を境に少しずつ昼が短くなり、夜が長くなります。四季の折り返しを感じますが、まだまだ残暑が厳しい時期でもあります。くれぐれも体調を崩されませぬようご自愛ください。 



さて、1年で最も月が美しいとされるのが中秋の名月(旧暦の8月15)です。
今年は915()が中秋です。お月見は夏の作物の収穫が終わり、稲刈りまでの手のあいた時期に豊作を祈る祭りを行ったのが始まりだといいます。
中国では後漢王朝(25年~220)の頃から
望月という月を見る催しがあり、それが平安時代に、遣唐使によってもたらされ、日本でも広がったといわれています。



平安時代に書かれた『枕草子』や『源氏物語』には宮中で月見を開いている描写が見られます。しかし、各地の神社の縁起(※由緒を記した絵巻物)には、それよりも古い弥生時代あるいは古墳時代から同様の行事が行われていたと書かれているものがあります。奈良時代に編纂された『万葉集』にもススキと月について詠んだ和歌が収録されています。



 月を愛でる、収穫を祝うといった感情は、他国から伝わるとか、どこそこが起源とか、そういうものではなく、縄文時代より自然の中に精霊を感じ(アニミズムという)、自然と共生してきた日本人にとって、太陽や月を信仰してお祀りするのは自然な感情なのかもしれません。



915()、綺麗な満月が見られるといいですね。 



中秋の名月
中秋の名月(写真提供:
 kenbounoblog.blog.fc2.com

<『枕草子』『源氏物語』にみられる月の宴>

さて、月見の習慣は平安時代まで遡ります。旧暦815日夜に名月を愛で、供物を供えて詩歌管弦の遊びをする「月の宴」という催しを行いました。内裏(だいり)をはじめ貴族の私邸で広く行われ、時代が進むにつれ庶民の間にも広がっていきました。

清少納言
(せいしょうなごん)の『枕草子』第九十六段には、「八月十よ日の月明き夜」の出来事として、中宮(※天皇の后)定子(ていし)が右近の内侍(うこんのないし)に琵琶を弾かせて女房たちと中秋の名月を見た回想が記されています。

これは997(長徳3)年か998(長徳4)年の出来事と推定されており、中宮定子を取り巻く状況は非常に厳しくなっていましたが、困難にあっても折々の宮中行事や季節感を楽しむ定子の姿を描いたこのエピソードは、この先におこる定子の痛ましい様子を描かない『枕草子』のトーンを考えると印象深く感じます。


紫式部
(むらさきしきぶ)の『源氏物語』には中秋の名月と特定できる場面は7例あります。
最初の場面は「夕顔巻」で、源氏と夕顔が五条の宿で逢瀬を遂げる場面です。2例目は「須磨巻」で、須磨の地にある源氏が内裏で行われている月の宴を思いやる場面です。都でも須磨でも同じ月を眺めているとの思いが、かえって源氏の侘しい境遇を浮き彫りにする効果を果たしています。

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例目は「明石巻」で、都に召還された源氏が朱雀帝と対面する場面815日の宵に設定されています。長いこと眼病を患い退位を決めている帝の御前では月の宴が催されず、朱雀帝のもの悲しさが伝わってきます。

桐壺帝や冷泉帝を描いた描写では様々な儀式行事が華やかに描かれていますが朱雀帝の描写には儀式行事が描かれていません。作者の紫式部は、意図的に彼が主催する描写を少なく扱うことで‟光“源氏と‟陰”朱雀帝の対照を鮮明にしたものと思われます。

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例目は「鈴虫巻」で、仲秋の名月を背景に、女三の宮(おんなさんのみや)と源氏の通い合わない会話、5例目は蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや)や夕霧(ゆうぎり)たちと虫の音について語りあう鈴虫の宴、6例目は冷泉院で和歌や漢詩を詠み合う月の宴、という3場面です。

六条院(※源氏の邸宅)でも内裏(だいり)でも月の宴が開かれるというような期待感を感じますが、この場面に登場する人物は、世捨て人の女三の宮(おんなさんのみや)、老いに苦しめられる源氏、譲位した冷泉院、です。いずれも華やかさに翳りが生じ登場人物としての終焉を漂わせています。内裏で行われるはずの月の宴が中止になったことも伏線になっています。


『源氏物語』月の宴
冷泉院での月の宴(京都・風俗博物館展示)

そして最後の例は、
源氏最愛の妻であるヒロイン紫ノ上の葬送場面です。ここでは紫ノ上の死で全ての光を喪失した源氏の悲しみの深さが最も明るい光を放つ中秋の名月と対照的に描くことでより強調されています。

『枕草子』(清少納言著)と『源氏物語』(紫式部著)。中秋の名月の扱いは作者(筆者)の受け止め方が強く反映されているように思われます。前者は中宮定子と女房たちがしっとりと名月を観賞するプラスの印象を与え、後者は地の文の描写と合わさり寂しさや悲しさいったマイナスの印象を与えています


そもそも平安時代の初めには月見の風習はなかったようで、物語のいできはじめの祖(おや)と呼ばれる
『竹取物語』には、「ある人の、「月の顔見るは、忌むこと」と制しけれども、ともすれば人間(ひとま)にも月を見ては、いみじく泣き給ふ。」と書かれており、月見は忌むものであったことが分かります。

しかし、紫式部が仕えた皇后彰子(しょうし)の父・藤原道長(ふじわらのみちなが)が、1018(寛仁2)に一家三立后(※一家から3代続けて皇后を輩出)を為したときに詠んだ、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」、という和歌のように、平安時代中期には月は忌むものから愛でるものに変わっていたことが古典からも分かります。和歌の意味は、「この世は自分のためにあるようなものだ。満月のように何も足りないものはない」といったところです。


清少納言や紫式部も、今わたしたちが見ている月と同じものを見ていたんだな、と思ってお月見をすると、「中秋の月明き夜こそ、いみじうあはれにをかしけれ」といった感傷に浸れるかもしれません。

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