柳条湖事件
<満州事変の背景>
1920年代の末、中国において蔣介石(しょうかいせき)の国民政府(国民党)のもとで中国全土統一の動きが進んでいました。満州(※中国の奉天・吉林・黒竜江の3省)においても、張学良(ちょうがくりょう)が、日本の反対を押し切って中国国民党の青天白日旗を掲げる易幟事件(えきしじけん)をおこし、国民政府に忠誠を誓いました。張学良は、1928年(昭和3年)に関東軍が爆殺した張作霖(ちょうさくりん)の子で満州軍閥の後継者です。張学良の国民党合流によって国民政府による北伐(※中国統一の戦い)は完了し、中国全土の統一がほぼ達成されました。
蔣介石は中国全土に高まりつつあった民族運動を背景に、これまで清朝以来中国が列強諸国に与えていたさまざまな権益の回収(※治外法権の撤廃、関税自主権の確立、鉄道権益の回収、外国人租界や租借地の回復、外国軍隊の撤退など)をめざして、国権回復に乗り出しまします。そして1931年(昭和6年)、国民政府は不平等条約の撤廃を一方的に宣言する外交方針をとるようになりました。
満州に様々な権益を持つ大日本帝国はこの方針に反発。そのため、満州をはじめ中国各地では組織的な日本商品のボイコット(※日貨排斥運動)が高まりました。同時に中国側によって満鉄平行線が敷設されて南満州鉄道株式会社の経営が赤字になると、日本の経済活動は大きな打撃を受けました。
満州は日露戦争以来の日本の特殊権益地帯であり、対ソ戦略拠点としても、重工業発展のための重要資源供給地としても、日本にとって「帝国の生命線」とされていました。そのため中国側のこのような国権回復の動きに日本側、特に陸軍の内部では危機感が高まっていきます。
満州の地図(山川出版社)
<この頃の日本国内>
1931年(昭和6年)4月、立憲民政党の第二次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣が発足し、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相を中心に国民政府との間に満蒙問題などをめぐって外交交渉を続けていましたが、日中間には懸案の問題が山積し、交渉は進みませんでした。
こうした状況の中で、関東軍(※満州駐屯の日本陸軍)をはじめ日本の陸軍部内には、幣原外交を「軟弱外交」と非難し、‟満蒙の危機“を打開するために、軍事力をつかって国民政府の勢力が満州に及ぶのを阻止し、満州を万里の長城以南の中国主権から切り離して日本の勢力下におこうとする気運が高まります。
1931年(昭和6年)7月~8月には、満州で兵要地誌の調査にあたっていた陸軍参謀本部の中村震太郎大尉が張学良配下の中国兵(関玉英という人物)に殺される中村大尉事件がおこったり、中国人農民と日本植民地の朝鮮人農民が衝突した万宝山事件(ばんぽうざんじけん)がおこったりして、満州の空気は緊迫しつつありました。日本国内は「暴戻支那(ぼうれいしな)」と、中国の傍若無人に憤りが高まりました。こういった空気が軍部を後押ししていったのも事実です。
<満州事変のはじまり>
関東軍は、参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)中佐と板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐を中心として、1931年(昭和6年)9月18日夜半、奉天(ほうてん)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で南満州鉄道の線路を爆破する柳条湖事件をおこし、これを中国軍のしわざとして軍事行動をおこました。
関東軍が奉天・長春など南満州の主要都市を占領すると、林銑十郎(はやしせんじゅうろう)司令官率いる朝鮮軍(※朝鮮駐屯の日本軍)も、独断で鴨緑江(おうりょくこく)を渡って満州に入って関東軍を支援します。
第二次若槻礼次郎内閣は不拡大方針を声明しましたが、関東軍はこれを無視してつぎつぎと軍事行動を拡大し、同年11月から翌2月までに、チチハル・錦州(きんしゅう)・ハルビンなど満州全土を占領しました。これがいわゆる満州事変です。
昭和になってから金融恐慌・世界恐慌・昭和恐慌・農業恐慌のあおりでどん底の不景気に苦しむ世論・マスコミは関東軍の行動を支持します。事体の収拾に自信を失った若槻内閣は総辞職し、1931年(昭和6年)12月、立憲政友会総裁の犬養毅(いぬかいつよし)内閣が成立しました。
柳条湖事件(朝日新聞)
ハルビンを占領する関東軍(『激動の昭和史』より)
<第一次上海事変と満州国の建国>
関東軍は満州事変勃発の直後から、満州における張学良政権を排除したのち、満蒙に新政権を樹立して中国国民政府から切り離し、日本の意思を反映した「独立国」をつくろうとする計画を進めました。
第二次若槻礼次郎内閣、とりわけ幣原喜重郎外相は、それが中国の主権・独立の尊重をとりきめた九カ国条約(1921年)の違反になり、日本が他の列強から非難されるとして、この計画に強く反対します。
しかし、関東軍は計画を実行し、1932年(昭和7年)2月までに東三省(※奉天・吉林・黒竜江の3省)の要地を占領すると、特務機関長土肥原賢二(どいはらけんじ)大佐は辛亥革命ののち天津(てんしん)にいた清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ。もと宣統帝)を連れ出し、日本軍に協力するように要請します。清朝復活を夢見る溥儀はこれに応じました。さらに関東軍は、新国家創設にむけ張景恵(ちょうけいけい)ら清朝の旧支配層にも接触し、日本軍への協力を取り付けました。
「満州国」建国
同年3月1日、関東軍は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ。もと宣統帝)を執政(しっせい)にすえて「満州国」を建国し、事実上の支配権を握りました。この間、中国では排日運動は上海(シャンハイ)にも飛び火し、同年1月には日中両軍が衝突する第一次上海事変が発生しましたが、列強の強い抗議によって5月に停戦します。これは満州から列強の目をそらす効果がありました。上海での戦闘に列強が自国の利権が脅かされないか注視している間に関東軍は「満州国」を作り上げたのです。
犬養毅内閣は「満州国」の承認を認めようとしませんでした。しかし、同1932年(昭和7年)5月、五・一五事件で犬養毅首相が殺害されて内閣が倒れると、後任の斎藤実(さいとうまこと)内閣は、軍部の圧力と世論の突き上げによって「満州国」承認に傾きました。
愛新覚羅溥儀(皇帝即位は1934年)
<国際連盟の脱退>
中国は満州事変勃発直後、これを日本の侵略行動であると宣伝して国際連盟に提訴し、「満州国」の独立を認めませんでした。満州事変をごく局地的なものとみて楽観視していた列強諸国は、日本政府の不拡大方針の約束が実行されないため、日本の行動は不戦条約(※日本は調印していない)と九カ国条約に違反するとして、しだいに対日不信感を強めていきます。
1932年(昭和7年)1月、関東軍は張学良の仮政府が置かれた錦州(きんしゅう)に爆撃を加えて占領すると、アメリカはこれらの条約に違反してつくられた既成事実は認めないとする不承認宣言を発して日本を非難しました。
国際連盟は、満州問題調査のためにイギリスのリットンを代表とするリットン調査団を派遣します。1932年(昭和7年)10月、調査団はリットン報告書を発表しました。これは、「満州国」が自発的な民族独立運動の結果成立したものとする日本の主張を否定していましたが、満州に対する中国の主権を認めると同時に日本の経済的権益に中国側が配慮すべきであるとしており、満州(東三省)の中国主権下に自治政府をつくり、治安を守るための小数の憲兵隊をおいて、それ以外の軍隊は撤退するという解決案を示していました。
リットン調査団
しかし、斎藤実(さいとうまこと)内閣は、関東軍がつくりあげた既成事実を認め、リットン報告書の発表直前、1932年(昭和7年)9月には日満議定書を取り交わして、いち早く「満州国」を承認しました。
日満議定書では、満州国は同国における日本人の安全確保と日本の権益を確認し、日本軍の無条件駐屯を認め、国防を関東軍に委ねることが決まりました。この他、付属文書では、満州の交通機関の管理を日本に委託すること、関東軍司令官の推薦・同意に基づいて満州国政府の要職に日本人官吏を採用することなどが規定されました。
日満議定書の締結(朝日新聞)
翌1933年(昭和8年)2月、関東軍は熱河省にも軍事作戦を拡大させますが、国際連盟を著しく刺激しました。同じ月に開かれた連盟臨時総会では、リットン報告書をもとに満州に対する中国の主権を確認し、満州国が日本の傀儡(かいらい)国家であると認定します。そして日本が満州国の承認を撤回し、占領地からの撤退を勧告する決議案が、賛成42対反対1(※反対は日本だけ)、棄権1(※タイ)で可決されました。
全権の松岡洋右(まつおかようすけ)は連盟の勧告は受け入れられないと演説し、3月12日、日本は国際連盟脱退を通告しました(1935年発効)。
松岡洋右(NHKより)
国際連盟脱退(朝日新聞)
<塘沽停戦協定により中国が満州国黙認>
1933年(昭和8年)5月、関東軍は中国軍と塘沽(タンクー)停戦協定を結び、満州事変は収束しました。蔣介石の国民政府は毛沢東の共産党との対決から万里の長城を国境として満州国の独立と日本の権益を黙認したのです。
日本はその後、独力で満州国の経営を進め、満州国は東三省に熱河省・興安省を加えた5省からなり、新京(現在の長春)を首都としました。そして満州の原野は国家としての機能が充実し、1934年(昭和9年)3月には帝政に移行。溥儀は悲願の皇帝に即位しました。
以上が満州事変の概要です。歴史は立場が変われば捉え方も変わります。日本と中国あるいは日本と中国・韓国が同じ歴史認識をもつことはありえません。満州事変が日本軍の‟侵略戦争”であったのかどうかはここでは論じることは無意味だと思います。ただし、中国が何一つ日本を刺激せず、国際法を守り、一方的に被害を受けたという主張は誤りです。
中学校の歴史教科書では「日本の中国侵略」というタイトルで章が始まります。教科書がそうなので当然資料集もそうですし公立入試もそういうスタンスをとっています。それを鵜呑みに学ぶ生徒がどのような歴史認識を持って大人になるのか想像に難くありません。史実をもとにさまざまな角度から検証し、様々な書籍に目を通し資料や映像を分析してみてください。歴史も戦争も一方が正義で一方が悪、あるいは一方が侵略者(加害者)で一方が犠牲者(被害者)ということはあり得ません。それぞれが掲げた‟正義(大義)”と‟正義(大義)”の衝突、それが紛争(戦争)なのかもしれません。平成の時代に合ったバランスのよい歴史感覚を養ってください。
満州国や皇帝溥儀、皇弟溥傑(ふけつ)と日本の侯爵家の令嬢から溥傑に嫁いだ嵯峨浩(さがひろ)については別の機会にお話したいと思います。
参考映像:満州事変(昭和ニュースより)
参考映像:満州国の都市~後編~(新京など)



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