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井出の沢古戦場跡(東京都町田市)を訪問しました

菅原神社(→東京都町田市本町田)の境内の一角に、「井出の沢古戦場」碑が立っています。南北朝時代の1335(建武2)年に、得宗被官(御内人)の諏方頼重(すわよりしげ)らが推定年齢7歳の北条時行(→北条高時の次男)を擁立して信濃で挙兵し、上野→武蔵→相模と鎌倉街道を南下し、各地で足利方を破り鎌倉を占領しました。この戦いを中先代の乱といいます。北条時行が建武政権の本拠地(京都)ではなく、鎌倉を攻撃目標としたのは、鎌倉幕府の復活もありますが、後醍醐天皇と不和になり鎌倉に幽閉されていた前征夷大将軍護良親王(もりよししんのう)と合流するためと言われています。

「井出の沢古戦場」は、『梅松論』によると鎌倉を出陣した足利直義が同年7月22日に武蔵井出沢で北条勢と合戦になり、北条方が大勝した古戦場となります。時行軍には鎌倉時代からの得宗被官(御内人)である諏方氏(→諏方頼重)・三浦氏(→三浦時継・時明)の他、信濃の豪族滋野氏甲斐武田氏なども駆けつけており、北条氏が長らく守護を務めていた甲信地方には北条氏を支持する勢力が多数残っていたことがわかります。

【井出の沢古戦場跡碑】
井出の沢古戦場1

井出の沢古戦場2

井出の沢古戦場3


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コメント

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Re: Re: 中先代の乱について

ありがとうございましたe-454e-420

北条時行が信濃で挙兵した理由や
他に兄弟がいなかったことなど
よく分かりましたe-2e-257


Re: 中先代の乱について

>なおさん

コメントありがとうございます。質問は歓迎します。

1333(元弘3)年5月22日の鎌倉幕府滅亡のときに、北条泰家(→北条高時の実弟)の命令を受けた得宗被官(→御内御家人)の諏方盛高によって7歳の時行は鎌倉を脱出し、諏方氏の本拠地である信州諏訪へと逃れました。この時、泰家自身も武蔵に向けて逃亡しています。時行が無事に鎌倉を脱出した一方で、兄の北条邦時は叔父でもある得宗被官の五大院宗繁に連れられて伊豆山神社(→静岡県熱海市)を目指しましたが、途中で五大院氏の裏切りにあい相模川で新田義貞の手勢に殺害されました。

なので、高時の後継者は時行だけとなります。他に兄弟がいればともに挙兵ということもあったのかもしれませんが、史料上確認できる兄弟は時行にはいなかったのです。北条氏の庶流の赤橋北条氏・名越北条氏・普恩寺北条氏なども散発的な叛乱は起こしましたが、得宗家と必ずしも運命共同体であったわけではなく、叛乱の動機はまちまちで同床異夢の関係でした。得宗家の統制に服すのを嫌がったのかもしれません。結局、北条氏与党が団結して挙兵することはありませんでした。この時期は血縁的な結合から地縁的な結合へと武家社会が変容していたことも理由として挙げられると思われます。


時行が逃れた信濃国(→長野県)は北条氏が代々守護を務めた国であり、北条氏の影響力が強い地でもありました。また、隣接する甲斐国の守護武田氏は北条得宗家と極めて親しい関係にあり、元弘の乱では後醍醐天皇の籠もる笠置山の攻撃に幕府軍として参加し、中先代の乱でも北条時行軍に味方しています。そのため時行にとって信濃は建武政権下において最も安全に匿われる土地といえました。それゆえ時行は信濃を拠点としたのだと考えられます。


中先代の乱について

質問があります('ω')ノ
北条時行はなぜ信濃にいたのでしょうかe-3e-317
時行の兄弟とかは挙兵に加わらなかったのでしょうかe-3e-351
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