称名寺(神奈川県横浜市金沢区)を訪問しました➀
【称名寺と金沢流北条氏について】
金沢山 称名寺(きんたくさん しょうみょうじ)は神奈川県横浜市金沢区にある真言律宗の別格本山で、鎌倉時代中期の1258(正嘉2)年頃に、武蔵国六浦荘金沢(かねさわ)に邸宅を構えていた北条実時(さねとき→北条義時の孫)が持仏堂を建立したことが称名寺の起源となります。実時は晩年に私設図書館の金沢文庫(→当時はかねさわぶんこ)を創設したことでも知られている好学家で、実時の子孫は金沢(かねさわ)流北条氏と呼ばれ、称名寺は金沢流北条氏の菩提寺として手厚く保護されました。
【金沢山 称名寺】
・本尊: 弥勒菩薩像(国指定重要文化財)
・開基: 金沢流北条実時
・開基: 審海上人(しんかいしょうにん)
・金堂前の阿字ケ池を中心とする美しい「浄土式庭園」が見所
称名寺は、北条実時の孫の金沢流北条貞顕(さだあき→15代執権)の頃には三重塔をはじめ七堂伽藍を持つ大寺院として最盛期を迎えました。しかし、1333(元弘3)年5月22日に鎌倉幕府が滅亡すると、貞顕や息子の北条貞将(さだゆき→17代執権とも)・北条貞冬(さだふゆ)をはじめ、金沢流北条氏の多くの一族・家臣が得宗(とくそう→北条氏の家督)北条高時らとともに東勝寺で自害、あるいは化粧坂(けわいざか)防衛戦などで戦死しました。
遠く鎮西(九州)に派遣されていた金沢流北条氏の庶子たちも鎮西探題赤橋流北条英時(ひでとき)と自害したり、降伏したり、潜伏したり、帰農したり、と生き残った一族もそれなりにいましたが、保護者を失った称名寺は急速に荒廃していきました。
室町時代になると将軍足利尊氏の正妻が赤橋流北条守時(もりとき→16代執権)の実妹であった縁もあり、関東における北条氏文化は保護されるようになります。中でも鎌倉公方足利持氏(もちうじ)は称名寺に多くの寺領を寄進したため、称名寺は持ち直すことができました。しかし、戦国時代になると金沢文庫や称名寺の宝物は、天下人となった豊臣秀吉や徳川家康、あるいは前田利家といった戦国大名によって持ち出されて(→略奪)しまい、散逸してしまいました。
金沢流北条氏については当塾のお勉強ブログ(「子孫が語る鎌倉北條氏の真実」)にも書きましたので、興味がある方はお読みください。
↓↓金沢流北条氏について
【称名寺の境内】
【称名寺の赤門】
【称名寺の仁王門】
【称名寺の金堂】
【称名寺の釈迦堂】
【阿字ケ池にかかる反橋(そりばし)と平橋(ひらばし)】
【称名寺の鐘楼】
➁につづく


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コメント
Re: No title
コメントありがとうございます。
北条政子の頭髪で刺繍が施されたと伝わる「法華曼荼羅」は、源頼朝や北条政子とゆかりのある伊豆山神社(→静岡県熱海市伊豆山)に所蔵され、政子が夫・頼朝の一周忌に際して冥福を祈るため、自らの髪の毛を使って刺繍したと伝えられます。46文字ある黒い梵字の部分に頭髪が使われているといいます。
北条時頼以降、得宗家が禅宗に帰依して五山を整備したため、北条氏=禅宗のイメージが強いのですが、極楽寺北条氏・金沢北条氏などの庶流は禅宗の他、天台宗・真言律宗・浄土宗などの宗派を保護し、時代が下ると日蓮宗や時宗寺院との繋がりも見えてきます。また、北条氏出身の寺門僧も大勢いて中世仏教界に多くの人材を輩出しています。
阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は、浄土曼荼羅に基づいて配備された庭園で、1320(元応2)年に金沢(北条)貞顕によって整備されました。浄土式庭園は極楽浄土の世界を再現しようとしているので、おっしゃる通り金沢北条氏の信仰を垣間見ることができます。
2023-03-26 11:51 副会長 西住りほ URL 編集
No title
阿字は大日如来を示す梵字のことですね。
北条政子は自身の髪で曼荼羅を刺繍したとも聞きます。
北条氏は嫡流、庶流が多いですが、金沢流でも彼らの
信仰が垣間見えますね。
2023-03-25 19:07 形名 URL 編集