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館山城(千葉県館山市)を訪問しました

館山城(→千葉県館山市館山)は館山湾に面した城山と呼ばれる標高65ⅿの独立丘を中心とした城郭です。安土桃山時代後期の1590(天正18)年8月、関白・豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼした小田原合戦に際して里見義康(よしやす)も豊臣方として参陣しましたが、里見氏の参戦は豊臣軍が小田原城を包囲している最中であり、房総半島の北条方国衆の諸城は徳川家康を中心とする別動隊によって接収されていきました。

里見義康は、古河公方の分流で北条氏の勢力拡大で没落していた小弓公方足利頼淳(よりあつ)を本来の鎌倉公方として鎌倉に戻すことを戦争目的に掲げて同年4月7日に下総国船橋(→千葉県船橋市)に進軍し、13日にはそのまま三浦半島まで進んでいます。しかし、北条氏滅亡後に秀吉の勘気(→怒り)を受け、本拠地の上総国を没収され、安房一国に押し込められました。

1591(天正19)年、里見義康は、内湾と平野を見下ろし領国経営に専念しやすい安房国館山に本拠地を移し、城の麓の真倉郷の一部を割いて城下町を建設しました。これにより、ようやく家臣や民衆の城下集住を促し、近世大名としての領国経営の基礎を作りだしたのですが、江戸時代前期の1614(慶長19)年9月9日に、館山藩主里見忠義(ただよし)は、江戸幕府より伯耆国倉吉(→鳥取県倉吉市)へ配流同然の移封を命じられ、館山城は破却されてしまいました。その時の書状が残されています。

 里見安房守殿荷物、
 此壱艘鹿嶋迄参候
 間、相違有間敷候、
 為其如此候
 以上
    嶋田次兵衛
 九月十八日 重次
   本多藤左衛門
      定勝
 御改衆中

9月9日に里見忠義は城を負い出され、大坂冬の陣(→豊臣秀頼攻め)を控えた幕府軍が9月13日に内藤家長の指揮のもと館山城の受取りに現れます。そしてこの幕府からの冷たい書状を見る限り、9月18日に本多・嶋田という幕府役人が忠義たちの荷物を船1艘に押し込め鹿嶋港まで運び出す段取りをしていることが分かります。
なお、館山城跡には郷土資料館を兼ねた模擬天守が建てられていますが、里見忠義の頃の館山城は土塁に館という伝統的な東国の城郭でした。


【館山城模擬天守(館山市立博物館・八犬伝博物館)】
館山城

館山城

館山城

館山城

館山城

館山城

館山城

館山城

館山城

館山城


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コメント

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Re: 小田原の役について

>内房姫さん

コメントありがとうございます。質問は歓迎します。

諸説ありますが、小田原合戦の際に里見氏が小弓公方足利義淳の鎌倉帰還(→「鎌倉御再興」)を掲げて軍事行動を行ったことが統一政権を目指す豊臣氏に問題視されたというのが定説です。確かに里見氏は第一次国府台合戦(1538年)以降、小田喜(→千葉県夷隅郡大多喜町)を御座所に小弓公方足利頼淳とその近臣を庇護し、三浦半島を攻める際に「鎌倉御再興」を制札に掲げています。ただ、「鎌倉御再興」の文言はこれきりで、「鎌倉御再興」が秀吉の統一政権構想の弊害と見なされ上総だけ没収されたとするのには無理があるように思います。

近年、里見氏の上総における統治の脆弱さを指摘する説が発表されました。小田原合戦当時、当主の里見義康は数え年19歳と若く、上総の里見領には、(1)正木時茂のような「譜代衆」、(2)里見氏に臣従した「外様衆」、(3)小弓公方足利氏のような「貴種の客将」が混在しており、里見氏内部でも「上総衆」「小田喜衆」と表記されています。このような里見氏の上総支配の不安定性が、上総を統治できていないと豊臣政権に見なされ、上総を没収されたというのです。
あるいは、北条氏滅亡後に徳川家康を関東に移封させることは豊臣政権の既定路線だったといいますので、北条方国衆の所領が多かった上総が戦後処理の一環で豊臣政権に召し上げられたと見ることもできます。

小田原の役について

里見家は小田原の役にも豊臣軍として戦っているのに
どうして上総の領地を没収されたのでしょうか??i-230
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