fc2ブログ

満福寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

龍護山 満福寺(→神奈川県鎌倉市腰越)は、正式には「龍護山 医王院 満福寺」という真言宗大覚寺派の寺院です。創建は奈良時代の744(天平16)年に大仏造立の勧進で東国に行脚していた行基が開山したと伝わります。しかし、大仏造立は745(天平17)年に平城京に還都してから東大寺で本格的に始まりましたので、この時期の行基の東国における足跡は不明です。

満福寺は「腰越状」で有名になった寺院です。鎌倉時代の1185(元暦2)年5月に、壇ノ浦合戦で捕縛した平家一門の総帥である平宗盛(むねもり)を鎌倉に護送した源義経が鎌倉入りを拒否されて腰越(→神奈川県鎌倉市腰越)の地で弁明書(→「腰越状」)を提出するも、かえって兄の源頼朝の怒りを買って京都に追い返されたという鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』による逸話です。

しかし、呉座勇一氏は、この時期の頼朝は義経を伊予守に推薦するなど懐柔策を模索しており、「腰越状」は後世の創作であると断言しています。この時期の伊予守は播磨守と並ぶ受領(→国司)の最高峰なので、頼朝が懐柔したい義経がわざわざ腰越まで来ているのに追い返す道理はありません。実際に天台座主慈円(→九条兼実の弟)の『愚管抄』や軍記物の『平家物語』などを読むと頼朝と義経の面会場面を描写していますので、こっちのほうが真実であったように私も思います。

とはいえ、満福寺境内には「腰越状」に関する源義経・弁慶主従に関する腰掛石や手玉石など、数多くの展示品を一般公開されています。弁慶が書いた「腰越状」の下書きが個人的には面白いと思いました。

【満福寺】
満福寺1

満福寺2

満福寺3

満福寺4

満福寺18

満福寺16

満福寺15

満福寺12

満福寺11


満福寺10

【「腰越状」関係】
満福寺5

満福寺6

満福寺7

満福寺8

満福寺9

満福寺13

満福寺14



にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ にほんブログ村 旅行ブログ 旅日記・旅の思い出へ
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

img { pointer-events: none; } img { -webkit-touch-callout:none; -webkit-user-select:none; -moz-touch-callout:none; -moz-user-select:none; touch-callout:none; user-select:none; }