無量寺(千葉県市原市)を訪問しました
信樂山 無量寺(千葉県市原市)は、正式には「信樂寺 寶樹院 無量寺 (信楽山 宝樹院 無量寺)」という浄土宗寺院です。飛鳥時代の672(白鳳元)年3月に、この地で難風に遭った漁船が、荒れる海中より出現した阿弥陀如来像を村に持ち帰り、宝樹坊(ほうじゅぼう)という僧に祭祀を託して安置したのが寺の興りだと伝わります。
平安時代の890(寛平2)年には、平氏の祖・高望王(たかもちおう)が父の高見王(たかみおう)のために宇堂を建立し、その後、現在地に移転したのだといいます。
鎌倉時代末期から南北朝時代(1336年~1392年)にかけて、千葉を拠点とする下総千葉氏は分立・抗争を繰り返しますが、享徳の乱(→鎌倉公方足利氏と室町幕府が支援する関東管領上杉氏の争い)がおこると、千葉氏は双方に分かれて抗争し、衰退が決定的となりました。そして、1455(康正元)年、公方側に与した馬加康胤(まくわりやすたね)・原胤房(たねふさ)が、上杉側に与した千葉宗家(→本家)の千葉胤直(たねなお)を攻めてこれを打ち破り、馬加康胤・原胤房勢は多古町に逃れた千葉胤直一族を滅ぼしました。
(千葉市郷土博物館より)
馬加康胤は千葉氏の嫡流ではなく傍系でしたが、千葉宗家の胤直を滅ぼしたことで惣領(→本家のトップ)の地位を奪い、千葉康胤を名乗りました。しかし、翌年美濃国(→岐阜県)より下向してきた千葉一族の東常縁(とうつねより)らに康胤は討伐され、下総・上総の国境である村田川で討ち取られました。現在、無量寺には千葉(馬加)康胤・胤持(たねもち)父子の墓があります。
ご住職の話によると、戦国時代になり、小田原北条氏の国衆(→従属)となった千葉一族によって千葉(馬加)康胤・胤持父子に関する過去帳は抹消されたそうです。ただし、地元の伝承では千葉市と市原市の境界に「どうまん塚」と呼ばれる塚を作り、そこに康胤父子の胴体を埋葬し、首は家臣の手で「大須賀塚」(→千葉市花見川区幕張町)に埋葬されたと伝わります。大須賀塚を訪問してみると、確かに五輪塔(→江戸時代のもの)が建っていました。康胤父子の首が埋葬されているのでしょうか。真偽の程は定かではありません。
〖千葉(馬加)康胤・胤持父子の墓〗
〖大須賀塚〗(千葉市花見川区幕張町)


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