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千葉神社(千葉県千葉市中央区)を訪れました

ー2016(平成28年)年元旦ー
千葉神社へ初詣に行ってきました。本部事務局を千葉市に移してから毎年恒例となっています。いろいろ願い事はあるのですが、境内にある千葉天神に合格祈願をすることが最大の目的です。神紋の「月星紋」はツキよく勝ちボシに恵まれるありがたいゴロです。

千葉神社正殿
千葉神社正殿(千葉市中央区院内
1-16-1

千葉天神
千葉天神(同)

受験生の名前を心の中で一人一人読み上げ、正殿と千葉天神の両方で祈願しました。帰路、出世弁天
千葉常胤公の石像にも新年の挨拶をしました。車だと見落としがちですが、千葉神社の裏側にあります。

出世弁天1
出世弁天(千葉市中央区中央
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千葉常胤公の石像
千葉常胤公の石像(同)

 
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<千葉神社の主祭神>


●主祭神…北辰妙見尊星王(天之御中主大神)


主祭神・北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)は、古代より妙見様(みょうけんさま)と親しまれ、天の中央に位置する北辰(つまり北極星と北斗七星)の御神霊といわれています。諸星諸星・方位方角を支配する尊い星の王と讃頌され、人間の運命や全ての方位を守護・掌握する神様である、と古代より信じられてきました。古事記の冒頭にも、「天地初めて開けし時に成りませる神の名は天之御中主神」とあり、北辰妙見尊星王と同じ神様のことだといわれています。

 

北辰妙見尊星王は、道教・陰陽道や、易学・九星気学・風水学の根幹となる特殊神であり、あらゆる守護能力を発揮する神様として、千葉一族や庶民に広く尊崇されてきました。

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<千葉神社の縁起(=歴史)> 
 

千葉の地を治めた千葉氏の祖・平良文(たいらのよしふみ)は、合戦のたびに妙見尊に祈願し、その加護を受け、常に大勝利を収めたといいます。子孫も一族の守護神として、妙見尊に熱烈な信仰を捧げました。このような関係から、平忠常(たいらのただつね)が先に分霊を祀り(年代不詳)、その後、忠常の二男覚算(かくさん)大僧正によって大伽藍が整備され、66一条天皇の眼病平癒の勅願所としての功績ともあいまって、1000(長保2)913日に『北斗山金剛授寺』の寺号を賜り中興開山しました。これが妙見社(現在の千葉神社)の前身です。

一条天皇は清少納言が仕えた中宮定子(ていし)や、紫式部が仕えた皇后彰子(しょうし)の配偶者であり、古典や日本史でもおなじみの天皇です。

 

1126年、千葉氏の7代目常重(つねしげ)は、妙見尊信仰の頂点に立つ本霊を猪鼻城(千葉城)から遷して、忠常が祀った分霊と合祀し、以後、妙見社(現在の千葉神社)は、妙見様の本宮として多くの人々から深い尊崇を集めました。

 

1180年、石橋山の戦いに敗れて安房に逃れた源頼朝(みなもとのよりとも)は、千葉常胤(ちばつねたね)らの助けを受けて武蔵・相模を平定し、鎌倉幕府の創設に乗り出しました。その際、頼朝は妙見社(現在の千葉神社)に参詣し、自筆の願文や太刀・武具などを奉納しました。また鎌倉時代中期、安房出身で日蓮宗を創始した日蓮(にちれん)が、宗門弘通の誓願をたてて参籠し、『この妙見尊こそわが宗門の守護神である』と讃嘆し、細字法華経を自筆して奉納しました。

江戸時代には、初代将軍徳川家康が妙見社(現在の千葉神社)を深く崇敬し、祭祀の料田として永代200石を寄進し、10万石の大名と同等の格式を与えました。その後も代々の徳川将軍が神領としてそれを保護しました。


1869
(明治2)、明治新政府による神仏分離令が発令されると、妙見社は「千葉神社」と改称され、関東大震災や戦災を受けながらも復興し、今日に至っています。
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