松代城(長野県長野市松代町)を訪問しました
千曲川(ちくまがわ→信濃川)東方にある平城で戦国時代に北信濃に侵攻した武田晴信(信玄)はやがて越後の長尾景虎(上杉謙信)と対立するようになります。両者が五度にわたって衝突(→大規模戦闘は1回)した川中島の戦いは有名ですが、その信玄が川中島四郡(→更科郡・埴科郡・高井郡・水内郡)を実行支配するため1560(永禄3)年頃に築いた城が松代城の前身となる海津城(かいづじょう)です。城代には重臣春日虎綱を配し、香坂氏・屋代氏など現地の国衆に守らせました。
1582(天正10)年3月に武田氏が滅亡すると、埴科郡の支配をめぐり織田氏・上杉氏・北条氏が争いましたが、江戸時代に海津城を拠点に松代藩が誕生し、さらに1622(元和8)年に上田藩主真田信之が関ケ原の戦いの加増として13万石で松代藩に移封されると。海津城は松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となりました。なお、1711(正徳元)年、3代藩主真田幸道の時代に幕府の命令で海津城は「松代城(まつしろじょう)」と名を改められました。この時期の幕府の政策は文治政治と呼ばれ、戦国遺風の廃止が次々と行われました。
松代城は千曲川によって形成された自然堤防の頂部に方形の石垣を配した本丸を置き、土造りの二の丸・三の丸で構成されています。2004(平成16)年に本丸の太鼓門・北不明門・二の丸土塁などが整備・復元され、2006(平成18)年4月に「日本100名城」の1つ(26番目)に選定されました。
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