宝戒寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました2
金龍山 宝戒寺(→神奈川県鎌倉市小町3丁目)は、正式には金龍山 釈満院 円頓宝戒寺という天台宗寺院で、鎌倉時代には得宗家小町亭(とくそうけこまちてい→北条氏の家督である得宗家の邸宅)がありました。「北條執權邸舊蹟」(→北条執権邸旧跡)の石碑が建っているのはそのためです。本尊は地蔵菩薩で、「萩の寺」と形容されるように季節によっては白萩が人の入山を拒むかのように咲き乱れます。
宝戒寺の開基は鎌倉幕府の討幕に執念を燃やした後醍醐天皇、開山は天台座主(てんだいざす→天台宗のトップ)の観恵鎮慈和尚で、1333(元弘3)年5月22日に滅亡した鎌倉幕府の最高権力者であった得宗(→北条氏の家督)北条高時をはじめ東勝寺合戦で受難した北条一族の霊を慰めるため、1335(建武2)年に後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立しました。
境内には北条高時を祀る徳崇(とくそう)大権現堂、厩戸王(うまやとおう)を祀る聖徳太子堂、鎌倉合戦及び東勝寺合戦の受難者を供養する宝篋印塔(ほうきょういんとう)などがあります。本堂には帝釈天、唐仏地蔵尊、十王尊、毘沙門天、聖観音像、不動明王像などがあり、それぞれ順番に座ってお参りでき、御朱印もいただけます。
宝戒寺は、略縁起についてホームページ上で次のように記しています。
*****************************
当山は天台宗の寺院で金龍山 釈満院 円頓宝戒寺と号す。開基は後醍醐天皇(1288~1339)、開山は天台座主(てんだいざす)五代国師観恵鎮慈威和上(かんえちんじいかしょう)で建武2年(→1335年)に創建された。当寺は北条義時が小町邸を造って以来北条執権の屋敷となり、元弘3年(1333)5月22日北条九代滅亡後その霊を慰めるため、又、国宝的人材を養成修行する道場として後醍醐天皇が足利尊氏公に命じこの屋敷跡に建立させた寺である。
開山の慈威和上(じいかしょう)は当山を円頓大戒(えんどんたいかい)と天台密教の大法関東弘通(だいほうかんとうぐつう)の道場として戒壇院(かいだんいん)を置き、加賀白山の薬師寺、伊豫(→伊予)の等妙寺、筑紫の鎮弘寺と共に遠国四箇(おんごくよんこ)の戒道といわれた。
また二世普川国師惟賢和上(ふせんこくしゆいけんかしょう)は国家鎮護のため和合仏(わごうぶつ)たる歓喜天尊像(かんぎてんそんぞう)(聖天様(しょうてんさま))を造立し特殊なる修法を定めてひたすら鎮護国家を祈念したのである。天文7年(1538)七堂伽藍(しちどうがらん)ことごとく焼失した。江戸時代に入って天海大僧正(てんかいだいそうじょう)は宝戒寺は関東における天台律宗(てんだいりっしゅう)の本寺である故、寺の維持相続の保護を徳川家康公に懇願している。
****************************
【宝戒寺の山門】



【宝戒寺の参道】











【宝戒寺の本堂】










【宝戒寺の内陣】




【宝戒寺の徳崇大権現堂】
神体は北条高時=徳崇大権現の木像です。








【宝戒寺の聖徳太子堂】









【北条氏受難者の宝篋印塔】





【宝戒寺の鐘楼】





【宝戒寺の石仏群】






【宝戒寺の境内】



















コロナ禍の前は、5月22日には一般の参加も可能な「徳崇大権現・大般若転読会」が開催されていましたが、この3年間は、寺の関係者のみで行われています。
********************************
↓↓徳崇大権現・大般若転読会の様子2018(平成30)年
↓↓東照寺跡・北条高時腹切りやぐら2018(平成30)年
↓↓東照寺跡・北条高時腹切りやぐら2023(令和5)年


スポンサーサイト

コメント
Re: 質問があります(*'ω'*)ノ
コメントありがとうございます。質問は歓迎します。
鎌倉時代後期の皇統(→天皇家)は持明院統(→のちの北朝)と大覚寺統(→のちの南朝)に分裂し、双方の系統からほぼ交互に天皇が即位する政治状態(→両統迭立)となりました。1318(文保2)年に大覚寺統から即位した後醍醐は同統の嫡流・後二条天皇の弟であり、後二条の皇子邦良(くによし)親王が成人するまでの中継ぎと、父の後宇多上皇に定められていました。
つまり、後醍醐は大覚寺統内においても傍流であり、何もしなければ数年で皇位から降ろされ、自分の子孫を天皇にすることができない立場にありました。
そのため、後醍醐は自分の皇子である世良(よよし)親王に目をかけ、朝廷の重要会議に同行させていました。世良は鎌倉幕府(→北条高時政権)との強いパイプを生かして朝廷で権勢を振るっていた西園寺氏を母にもつ皇子です。つまり、後醍醐は、親幕府派公卿の血を引く皇子を後継者に強く推すことによって、幕府の支持を獲得し、持明院統や大覚寺統嫡流との皇位継承争いに勝利する戦略を持っていました。この戦略を採った場合、後醍醐にとって鎌倉幕府が安泰であってくれたほうが好都合なわけで、必ずしも倒幕一辺倒ではなく、複数の戦略を柔軟に駆使する現実的な思考を持っていたことが指摘されます。
しかし、世良親王は1330(元徳2)年9月に夭折してしまい、有力な皇位継承候補を失った後醍醐は、この頃から鎌倉幕府倒幕の陰謀を巡らし始め、翌年4月29日に杜撰な倒幕計画(→元弘の変)を実行しました。
2023-02-01 09:20 副会長 西住りほ URL 編集
質問があります(*'ω'*)ノ
のにどうして鎌倉幕府を倒そうとしたのですか
2023-02-01 07:41 なお URL 編集