高蔵寺(東京都町田市)を訪問しました
見星山 三輪院 高蔵寺(→東京都町田市三輪町)は、「従来当時御朱印奉還之理由書」によると南北朝時代の1362(康安2)年4月に、鎌倉公方足利氏の祈願所として権大僧都法印定有(ごんのだいそうずほういんじょうゆう)よって開山された真言宗豊山派の寺院です。江戸時代には幕府より寺領11石5斗を拝領し、岡上山 東光院 宝積寺(→神奈川県川崎市麻生区岡上)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。また、近くの熊野神社と椙山神社の別当寺を努め、祭祀を司りました。
1867(慶応3)年10月14日に江戸幕府が倒れると御朱印を奉還し、翌1868(明治元)年には正善寺、1882(明治15)年には慶福寺を高蔵寺に合寺しました。正善寺は高蔵寺地蔵堂となり、鶴川地蔵尊として市民に親しまれています。
1935(昭和10)年には北原白秋夫妻が高蔵寺を訪れ、「高蔵寺しづかやと散葉眺めいて 梢の柿のつやつやしいろ」と詠みました。また「高蔵寺七福神めぐり」と名付けられた竹林に、七福神像が祀られていて、その姿に触れることもできます。
高蔵寺は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』多磨郡柚木領三輪村の条に次のように記されています。
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三輪村
高蔵寺
字正保寺にあり、新義真言宗、都筑郡岡上東光院末、見星山三輪院と号す、寺領十一石五斗の御朱印を賜はれり、開山詳(つまびらか)ならず、中興開山慶誉は慶長十年(→1605年)十一月朔日化す、当寺寛永九年(→1632年)回禄(→火災)にあひて、古記録・古器等皆烏有(→焼失)となれり、前に出せる熊野、杉山二社の由緒書をもそのとき失ひしと云(いう)。
門
坤に向へり、両柱の間二間。
本堂
門の正面にあり、十間半に六間半、本尊は大日期の坐像にして長(ながさ)一尺五寸(→約45cm)。
鐘楼
本堂に向て右の方にあり、九尺四方、鐘銘の末に寛延二年と彫れり。
閻魔堂
本堂に向て左の方にあり、三間四方、閻魔の像長(ながさ)二尺(→約60cm)ばかり、十王の小像あり。
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【高蔵寺の山門】
【高蔵寺の本堂】
【高蔵寺の境内】
〖高蔵寺の七福神〗
2022(令和4)年1月3日午前4時10分頃、東京都町田市三輪町の「高蔵寺」から出火し、本堂や寺務所、倉庫など計8棟約3150㎡が全焼した、というショッキングなニュースが流れました。写真は2018(平成30)年11月に訪問した時のものとなります。
高蔵寺の復興を、心よりお祈り申し上げます。
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↓↓高蔵寺地蔵堂(高蔵寺別院鶴川地蔵尊)について
↓↓本山であった岡上山 東光院 宝積寺について
↓↓三輪熊野神社について
↓↓椙山神社について


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