武田勝頼公のご命日
天童山 景徳院(山梨県甲州市大和町田野)を訪れました。新暦と旧暦の違いはありますが、3月11日は私が歴史上で最も敬愛している夫妻である戦国大名の武田勝頼(かつより)公とその継室(→後妻)の北条夫人の命日にあたります。甲斐武田氏最期の戦いは、ひと昔前までは「天目山(てんもくざん)の戦い」と呼ばれていましたが、近年は「田野合戦」や「十賊山(とくさやま)の戦い」と呼ばれるようになりました。私は「田野合戦」でいいと思います。
景徳院の住所は、以前訪れた際には「大和村」で、「甲州市」などという自治体は存在していませんでした。山梨県の市町村合併に伴う名称の変貌ぶりには、来る度に驚かされるとともに、「ここはどこのこと?」となることが多く、カーナビも混乱しています。歴史や由緒ある名前が消えていくは寂しい限りです。時代の潮流なのでしょうか。
戦国時代の1582(天正10)年3月11日に甲斐武田氏が滅亡したのち、甲斐国は織田信長の領国となりましたが、同年6月に本能寺の変がおきて信長が横死すると、最終的に甲斐国は徳川家康が支配するようになりました。
同年7月、徳川家康は、武田旧臣を家来に迎え入れる政治的な思惑もあり、武田勝頼公の家族と殉死した家臣らの菩提を弔うという名目で、田野郷一帯を寺料として寄進して景徳院を建立しました。
江戸時代と明治時代に火災で伽藍の多くが焼失したそうですが、静寂で澄んだ空気の中、勝頼公家族と家臣たちは静かに眠っているようでした。
姫ヶ淵(→侍女たちが殉死したとされる場所)や武田勝頼公・北条夫人・武田信勝(→勝頼公の嫡男)の墓、生害石、没首地蔵尊、など境内にある伝承施設を周回し、その都度手を合わせていました。伝承の多くは後世に作られたもので史実ではないでしょうが、地元の人の鎮魂の気持ちが伝わってくるようで、その思いに合掌いたしました。
その後、「鳥居畑古戦場跡」や「史跡四郎作古戦場」など、田野合戦に関する史跡を巡りました。駅から景徳院まで、そして景徳院から史跡をめぐってまた駅に戻るまで、ご住職の方以外とは誰とも会いませんでした。人、住んでいますよね??
〖甲斐大和駅前の武田勝頼公像〗
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