称名寺(神奈川県横浜市金沢区)を訪問しました➁
金沢流北条実時(さねとき)は、蒙古襲来の国難に際して北条氏の重鎮として8代執権北条時宗を支え、1274(文永11)年11月の文永の役(→第1次蒙古襲来)の勝利に貢献しました。そして、翌1275(建治元)年に政務を引退して六浦荘金沢の私邸に金沢文庫(かねさわぶんこ)を創設しましたが、翌年に53歳で亡くなりました。
金沢文庫は子の金沢流北条顕時(あきとき)と、その子の金沢流北条貞顕(さだあき→15代執権)が整備、発展させ、菩提寺の称名寺ともども大切に保護しました。北条顕時は安達泰盛(あだちやすもり)の縁戚であったため1285(弘安8)年の霜月騒動で安達氏が内管領(→得宗家執事)平頼綱(たいらのよりつな)によって滅ぼされると、連座して下総国の所領に配流されましたが、のちに頼綱が主君北条貞時(さだとき)によってによって滅ぼされると、再び鎌倉に返り咲くことができました。
その後、金沢流北条氏は、数多くある北条氏庶流の中でも評定衆(政務)や引付衆(裁判)、さらには執権(→将軍の補佐役)、連署(→執権の補佐)、六波羅探題(→西国の統治機関)や鎮西探題(→九州の統治機関)、寄合衆(→得宗私邸での政務)など、鎌倉幕府の重職を担った家系に成長しました。
称名寺の本堂から神奈川県立金沢文庫の方角に歩いていくと、「北条実時(さねとき)の胸像」や、「北条顕時(あきとき)・金沢貞顕(さだあき)の墓所」と伝わる五輪塔があります。さらに八角堂に通じる道を進んでいくと称名寺を開基した「北条実時の墓所」があります。実際に彼らの骨や遺髪が埋葬されているかは定かではありませんが、鎌倉幕府滅亡後に北条氏の追善供養が行われていますので、その際に供養塔(五輪塔)が建てられたのだと思われます。
隣接する神奈川県立金沢文庫(神奈川県横浜市金沢区金沢町)には歴史・仏教・絵画・工芸品・古書など、貴重な展示品がずらりと展示されています。そこに向かう途中には鎌倉時代の隧道(ずいどう)がありますが、崩落の危険があるとのことで現在は通行禁止になっています。
↓↓北条顕時について
【金沢流北条実時の胸像】
【金沢流北条顕時・金沢流北条貞顕の墓所】
【称名寺の猫ちゃん】
称名寺の境内にはたくさんの猫がいます。人を全く警戒していないようで、住職さんはじめ寺の関係者が飼っているのでしょうか。中でも釈迦堂ですり寄ってきた白い猫がとても人懐っこくて可愛かったです。猫派の私にはとても癒されるひと時でした。
【鎌倉時代の隧道(→現在は通行止め)】


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