5月29日は横浜大空襲の日です
横浜大空襲は、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年5月29日の昼間に、米軍によって横浜市の中心地域に対して行われた無差別爆撃(→戦争犯罪)です。太平洋戦争も末期になると米軍は航空機による戦略爆撃の対象を、それまでの軍事施設から一般市民が暮らす都市や農村部にも拡大させ、日本各地で多くの人々が空襲の犠牲となりました。
日本本土が初めて空襲を受けたのは、まだ日本軍が東南アジアや中国大陸で戦局を有利に進めていた1942(昭和17)年4月18日のことで、ドゥリットル中佐率いるB25双発爆撃機16機が、東京・横浜・名古屋・大阪・神戸を小規模ながら空襲しました。この日、東京市では市民対象の空襲訓練(→バケツリレーなど)を行っていたので、実際の空襲だと気が付くのに時間がかかったという市民が多かったというNHK特集を視聴したことがあります。この空襲は、日本本土が直接戦場と化すという意味で、政府や軍部に衝撃を与え、市民にとっても初めての空襲体験となりました。
このドゥリットル中佐率いるの爆撃機が米海軍の空母から発艦したことが判明したため、米空母の撃滅を期して中部太平洋の要衝ミッドウェー島の攻略及びミッドウェー海戦が行われたのですが…。
〖横浜大空襲〗
太平洋戦争の戦局は徐々に悪化していき、1944(昭和19)年7月までに、日本は「絶対国防圏」と定めていたサイパン島などマリアナ諸島を次々と米軍を中心とする連合国軍に奪われました。アメリカは占領したサイパン島に航空基地を築き、新しく開発した大型爆撃機を集結させました。新型機は全長約30ⅿ、翼長約32ⅿ、日本軍の対空砲が届かない高度1万ⅿを飛行し、3000km以上の行動半径を持ち、2トン以上の爆弾を搭載し、防衛用の機銃なども最新鋭のものをそろえていました。これが日本列島を廃墟に陥れた「超空の要塞」と呼ばれたB29戦略爆撃機です。
そして、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年5月29日未明、米軍21爆撃機集団所属のB29編隊517機、護衛のP51戦闘機101機がマリアナ基地を発進し、午前9時20分頃に横浜上空に達し、10時半頃までの約1時間にわたり、太平洋戦争で米軍が落とした最大の爆弾量となる43万8576個(→2569.6トン)の大量の焼夷弾(しょういだん)を投下しました。下町を中心に10万人以上が死傷した3月10日の東京大空襲で米軍が投下した焼夷弾は約38万1800個(→1665トン)でした。
米軍は密集した木造家屋を焼き払うのに適したM69と呼ばれる集束焼夷弾を大量に投下し、横浜市の中区・西区・南区・神奈川区を中心に、横浜の市街地が猛火に包まれました。空襲の炎や煙は夕方になっても遠く東京から見えたといいます。この空襲による被害は、直後の軍部の公式発表によると死者3650人、重軽傷者1万198人、行方不明者309人、罹災者31万1218人でしたが、戦後の調査では約1万人が死亡し、罹災者も80万人以上にのぼっています。
米軍も日本軍の反撃でB29が7機撃墜され、175機が損傷を受けていますが、日本は制海権も制空権も失い、米軍はその後も自由きままに日本列島を無差別爆撃を行い蹂躙し尽くしました。大正時代末期の1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災から20年余りが過ぎ、ようやく復興した横浜の市街地は、たった1時間の横浜大空襲で再び灰燼に帰してしまったのです。横浜市西区御所山には、今も地元の人に「お化け段々」と呼ばれる横浜大空襲の爪痕を残す階段があります。
〖米軍によるその後の横浜空襲〗
米軍による横浜空襲は、その後も終戦まで続き、6月10日にB29編隊315機・P51編隊30機が中区・磯子区を空襲し、7月12日にはB29編隊50機が夜間に鶴見区と川崎市の工業地帯や戸塚区・南区を空襲し、翌7月13日にもB29編隊50機が鶴見区と川崎市に焼夷弾を投下し、7月25日にもB29編隊50機が鶴見・川崎の工業地帯を夜間爆撃しています。
7月28日にはP51編隊が来襲して市内を機銃掃射し、8月1日にはB29編隊150機が夜9時から翌日午前2時まで5時間にわたり鶴見区と川崎市に焼夷弾とロケット弾による絨毯(じゅうたん)爆撃を行いました。翌8月3日には厚木方面に来襲したP51編隊が相模鉄道(→相鉄線)瀬谷駅構内を銃撃して市民を無差別に殺傷しました。最後の空襲は終戦の2日前の8月13日にあり、米空母艦載機200機が早朝から夕刻まで横浜市をはじめ神奈川県全域に時限性爆弾やロケット弾、機銃掃射などを行い多数の市民を殺傷しました。
この間の8月6日には広島に、8月9日には長崎に原子爆弾が投下され、多くの一般人(→広島市には米軍捕虜施設もあった)が殺されました。2022(令和4)年の5月29日現在も、ロシア軍によるウクライナ侵攻が続いていますが、一般市民を標的にする無差別殺戮は絶対に許さるものではないでしょう。
【横浜大空襲】
(以下画像提供: 横浜市・朝日新聞社)
米軍機はまず富士山を目印に飛行しました。
空襲直後の桜木町


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コメント
Re: 空襲について
コメントありがとうございます。質問は歓迎します。
①43万発以上の焼夷弾をひたすら落とし続けたということでしょうか。
②災や煙で目標が見えなくなることはなかったのでしょうか。
③焼夷弾による空襲は日本だけが受けたのでしょうか。
④P51は何をしていたのでしょうか。
<①について>
横浜大空襲では先導のB29がはじめに「M47A2焼夷弾」を落としました。これは大型の焼夷弾で爆風効果を併せ持ち消火活動を妨げる火災を起こし後続機への目印にしたのです。その信管は瞬発性信管といい物に触れた瞬間に爆発するため、とても殺傷力が強いものです。爆風から身を守る方法として国民学校などでは目・耳・鼻を押さえて伏せるように指導していました。
B29は続けて昨日説明した「M69収束焼夷弾」を雨霰のように投下して大火災を起こしました。米軍の記録には『この組み合わせが(日本の都市を壊滅させるのに)最も効果的である』と記されています。しかも、米軍機は市街地の外側と港側から爆撃を始め火の壁で取り囲んで市民を内側へと追いやったのちに絨毯爆撃とP51による機銃掃射を行いました。
消防車が川に転落するほどの突風を生み、合流した火災は巨大な火災旋風(ファイヤーストーム)となり全ての酸素をのみこんで市民を窒息させました。
<②について>
災は「炎」のことでしょうか。517機のB29は9~12機の編隊を組み輪番で東神奈川・平沼橋・関内(→横浜市役所)・吉野町(→日枝神社)・大鳥国民学校の5カ所の平均弾着点に侵入して輪番方式で爆撃しました。同一着弾点には16分おきに侵入して、1時間半をかけて焼夷弾を投下しています。この際に火煙による視界が妨げられないように風下の平均着弾点(→大鳥国民学校と吉野町)を最初に攻撃しています。煙が広がりB29の乗員の視界が悪くなる前に少なくとも1回は有視界による同時投下を行うため、最も多い場所では30cm間隔の密度で爆撃されました。
<③について>
焼夷弾による攻撃は日本軍も行っており、1939(昭和14)年5月3日と12月26日の海軍航空隊による重慶爆撃や、1942(昭和17)年9月9日と29日の深夜に行った伊25潜水艦搭載の水上偵察機によるオレゴン州アメリカ海軍基地への爆撃で焼夷弾が使用されました。
連合軍の使用例では、1945年2月13日から15日にイギリス空軍がドイツ東部のドレスデンを無差別爆撃(→ドレスデン空襲)した際に焼夷弾が使われました。中世の建築物がたちならぶその街は戦略的な意味は小さく、よその都市から逃げ込んできた20万人の避難民でごった返していたのですが、イギリス軍の夜間空襲は意図的に3時間おきに行われました。ひとしきり爆撃を終えたあと市民が消火活動を動く頃を見計らい再び猛攻をしかけたのです。翌朝も防空壕から出てきた市民の頭上にアメリカ軍機の爆撃と機銃掃射で追いうちをかけ、翌々日もイギリス軍は執拗に第4波爆撃を行い徹底的に破壊し尽くしました。
<④について>
101機のP51は、迎撃に上がった約21機の日本軍戦闘機との空中戦のほか、逃げ惑う人々を平均弾着点の方向へ誘導するための機銃掃射を行いました。直径20mm機銃の威力は人間の体を簡単にバラバラにするほどだったといいます。
2022-09-04 06:16 副会長 西住りほ URL 編集
空襲について
よく分かりました!!!(^^)/
もう一つ空襲について質問いいでしょうかm(__)m
B29は5カ所を集中攻撃したということですが、
43万発以上の焼夷弾をひたすら落とし続けたということでしょうか?
災や煙で目標が見えなくなることはなかったのでしょうか?
焼夷弾による空襲は日本だけが受けたのでしょうか?
P51は何をしていたのでしょうか?
2022-09-03 12:41 不知火 URL 編集
Re: 焼夷弾について
コメントありがとうございます。質問は歓迎します。
➀焼夷弾について教えてください。
➁威力は強いのでしょうか。
③消火活動はできなかったのでしょうか。
④日本側はB29に防戦をしたのでしょうか。
<➀について>
軍事施設などの1点目標を吹き飛ばすための爆弾と異なり、焼夷弾は燃焼剤をまき散らして効率的に都市全体を火災にして焼き尽くすための爆弾です。横浜大空襲で米軍が使用した焼夷弾は収束焼夷弾の「M69焼夷弾」といい、投下された親爆弾1発が38発の子爆弾に分離し、1発の子爆弾は直径8cm×長さ51cmの鉄の六角棒でできていました。鉄の六角棒の中には高温で燃える燃焼剤(→ゼリー状のガソリンを入れた布袋)、起爆装置の信管、TNT火薬が詰められています。
<➁について>
上空8500ⅿの高高度から投下された親爆弾は上空700ⅿで分解し、貫徹力が強まるよう向きを垂直に保つためのリボンをたなびかせながら雨・霰と落ちてくるので夕立のような音と相まって「火の雨」と形容されました。屋根を貫通した子爆弾は屋内で横倒しになり、数秒経ってから爆発し、火の付いた燃焼剤が飛び散り壁や床、地面、あるいは人間の髪の毛や衣服・防空頭巾にへばりついて燃え、水をかけても消えにくかったといいます。
<③について>
横浜大空襲では517機のB29から43万8576発もの子爆弾が逃げ惑う人々に、一斉に、猛スピードで降り注いできました。米軍は消火活動ができないように東神奈川駅・平沼橋・関内(→横浜市役所)・吉野町(→日枝神社)・大鳥国民学校の5カ所を攻撃目標(→平均弾着点)に定め、「消えない火災」を起こしました。火災旋風、一酸化炭素、酸欠、火傷で呼吸もできない状態だったといいます。アスファルトも熱で溶けてドロドロになっていました。川や防火用水も沸騰していたようです。なので有効な消火活動はできなかったと思われます。
<④について>
日本側も座間地区を中心に熾烈な対空砲火を行いましたが、当時川崎に数門しかなかった新式の高射砲でも有効射程8000ⅿほどで、B29はそのはるか上空を悠々と通過していきました。日本軍の高射砲の砲弾破片も鋭利な凶器となって逃げ惑う人々に降り注ぎました。横須賀海軍航空隊は午前3時には「総員起こし」の号令がかかり早期警戒態勢に入っていましたが迎撃に飛び立てた戦闘機は10機のみで、頼みの厚木航空隊すらわずか11機という有様で、7機のB29を撃墜し175機に損傷を与えるのが精一杯でした。
2022-09-02 16:12 副会長 西住りほ URL 編集
焼夷弾について
焼夷弾は火災を発生させるための爆弾なのでしょうか。
威力は強いのでしょうか。
消火活動はできなかったのでしょうか。
日本側はB29に対して防戦をしたのでしょうか。
質問が多くてすみませんm(__)m
2022-09-02 09:17 不知火 URL 編集