1868(明治元)年の信濃国の藩別石高と藩兵の考察
大名とは?藩とは?
江戸時代に、徳川将軍から1万石以上の領地を賜った(安堵された)武士を大名といい、大名の領地とその支配機構を藩といいます。俗に「徳川300藩」などと呼ばれますが、15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還(→政権を朝廷に返上)を行った1867(慶応3)年10月14日時点に存在した藩の総数は270藩です。また、その270藩も江戸幕府の創設期から幕末まで同じ大名家で存続していた藩はあまり多くありません。初代将軍徳川家康に立藩を許されたものの、その後の藩主の不品行や急死などで改易(かいえき→お取り潰し)された大名家も少なくありません。
また、ある時点までは1万石未満(→大名になれない)の武士が、将軍代替わりなどのタイミングで1万石以上に取り立てられて大名となり立藩を許された家もあります。戊辰戦争(1868年1月~1869年5月)の「脱藩大名」林忠崇(ただたか)を輩出した上総国の請西(じょうざい)藩林家(→千葉県木更津市)などがそうです。
藩の規模
藩といっても大小様々あります。俗に「加賀百万石」と呼ばれる102万5000石を有する加賀藩前田氏(→石川県金沢市)のような国持(くにもち)大名から、各地に点在する飛び地を合わせてかろうじて1万石に達した下総生実(おゆみ)藩森川氏(→千葉県千葉市中央区)のような小藩、中には大名になる資格がない5000石だけれども古河公方と小弓公方足利氏(→室町将軍の一族)の系譜であるため「特別に」立藩を許された喜連川(きつれがわ)藩喜連川(足利)氏(→栃木県さくら市)まで、藩といっても様々です。中には藩庁が置かれた本拠地よりも飛び地のほうが新田開発に成功して人口も増え、経済的に豊かになった藩などもありました。
信濃国全11藩の考察 (本題)
さて、信濃国(→長野県)には江戸幕府が閉幕した1867(慶応3)年10月14日の段階で11藩ありました。石高には表高(おもてだか)と内高(うちだか)があります。表高(おもてだか)とは検地帳に記載されている幕府公認の石高のことです。ただし、新田開発などで石高が増えた藩や、自然災害などで石高が減った藩もあり、実際の石高のことを内高(うちだか)といいます。幕府は立藩時の表高で軍役などを決めますので、各藩は新田開発に力を注ぎました。
石高の最小単位は1石(→1000合)で、これは大人1人が1年間に食べる米の量を表します。当時の信濃国の年貢率(→税率)は四公六民(→税率40%)が多いので内高の4分の1程度が年貢収入となります。明治時代初期に新政府が調べた信濃11藩の実際の年貢収入を見ると、どの藩もかなり困窮していたことが分かります。
〖信濃国11藩を内高順で並べると〗
1位……松代藩(→長野市) 藩主は真田氏
表高10万石(内高12万3570石)➡年貢収入3万7150石
2位……松本藩(→松本市) 藩主は戸田氏
表高6万石(内高9万7522石)➡年貢収入3万6850石
3位……上田藩(→上田市) 藩主は松平氏
表高5万3000石(内高6万120石)➡年貢収入2万2808石
4位……高島藩(→諏訪市) 藩主は諏訪氏
表高3万石(内高4万5922石)➡年貢収入1万6070石
5位……飯山藩(→飯山市) 藩主は本多氏
表高2万石(内高3万5192石)➡年貢収入1万1970石
6位……高遠藩(→伊那市) 藩主は内藤氏
表高3万3000石(内高3万4999石)➡年貢収入1万5330石
7位……小諸藩(→小諸市) 藩主は牧野氏
表高1万5000石(内高2万8772石)➡年貢収入1万20石
8位……飯田藩(→飯田市) 藩主は堀氏
表高1万5000石(内高2万93石)➡年貢収入1万40石
9位……龍岡藩(→佐久市) 藩主は大給氏
表高1万6000石(内高1万6279石)➡年貢収入5140石
10位…岩村田藩(→佐久市) 藩主は内藤氏
表高1万5000石(内高1万5125石)➡年貢収入4300石
11位…須坂藩(→須坂市) 藩主は奥田氏
表高1万石(内高1万2153石)➡年貢収入4330石
5位~9位では、表高では上位の藩が、実際の内高では下位になる逆転現象が起きています。1位の松代藩と2位の松本藩を比べても、表高では4万石の開きがありますが、内高では2万6048石の差に縮まっています。さらに実際の年貢収入となると300石の差にまで縮まっています。つまり、1位の松代藩よりも2位の松本藩のほうが良い水田が多かったことが分かります。
信濃11藩は全て表高よりも内高のほうが大きいですが、9位~11位の下位3藩は実際の年貢収入は4000~5000石前後なので、藩財政の維持がギリギリだったはずです。1位の松代藩ですら不足分を商人からの借金(→大名貸という)や、家臣の俸禄(→給与)の減給(→半知という)、家臣の俸給を半強制的に借りたり(→借上げという)して凌いでいたほどです。全国的にも江戸時代中期以降になると困窮した武士の中には豊かな商人の婿入りをして武士身分を商人に売却(→武士の身分を商人に譲渡)する者も現れました。
加賀藩前田氏の財力
表高400万石の徳川将軍家を除けば、表高102万5000石の加賀藩は全国最大の領地(=経済力)を持つ藩となります。ただし、102万5000石といっても家臣の知行地(→領地)、農地、寺社領、入会地などを含めてなので、藩主前田家の直轄地は半分以下になります。仮に半分の50万石が前田家の直轄領だとしても、年貢率は四公六民(→税率40%)なので収入は10分の4の20万石は確保できます。20万石は信濃国1位の松代藩の全収入の約5.4倍なので、加賀藩前田氏は豊かだったことでしょう。なお、年収20万石は現在のお金に直すと年収200億円ほどになります。
表高400万石の徳川将軍家を除けば、表高102万5000石の加賀藩は全国最大の領地(=経済力)を持つ藩となります。ただし、102万5000石といっても家臣の知行地(→領地)、農地、寺社領、入会地などを含めてなので、藩主前田家の直轄地は半分以下になります。仮に半分の50万石が前田家の直轄領だとしても、年貢率は四公六民(→税率40%)なので収入は10分の4の20万石は確保できます。20万石は信濃国1位の松代藩の全収入の約5.4倍なので、加賀藩前田氏は豊かだったことでしょう。なお、年収20万石は現在のお金に直すと年収200億円ほどになります。
石高から各藩の武士の人数や兵力を単純計算
江戸時代の武士は全人口の5%前後です。単純計算だと加賀藩は102万5000石なので102万5000×0.05=5万1250人ほどの武士がいたことになります。同様に、10万石の松代藩は10万×0.05=5000人ほどが武士、1万石の下総生実藩は1万×0.05=500人が武士だったことになります。もちろん、この人数には幼児、高齢者、女性、重病人なども含まれていますし、武士といっても上は大名(→殿様)から下は郷士までいます。
百姓一揆などが起きた場合に多勢の百姓集団に寡兵の藩兵が敗北することもざらにあったようです。千葉市郷土博物館(→千葉県千葉市中央区亥鼻)には戊辰戦争における下総生実藩の戦績などがパネル展示されていますが、生実藩が戊辰戦争で動員できた藩兵は120人ほどでした。上記の単純計算で武士の数が500人ほどなのでかなり頑張って動員したほうです。
同様に戊辰戦争で官軍(→新政府軍)の主力として戦った雄藩の武士の人数を単純計算(→幼児、高齢者、女性、重病人なども含む)してみると、次のようになります。
同様に戊辰戦争で官軍(→新政府軍)の主力として戦った雄藩の武士の人数を単純計算(→幼児、高齢者、女性、重病人なども含む)してみると、次のようになります。
薩摩藩(→藩主は島津氏)は77万石×0.05=3万8500人
長州藩(→藩主は毛利氏)は36万石×0.05=1万8000人
土佐藩(→藩主は山内氏)は24万石×0.05=1万2000人
肥前藩(→藩主は鍋島氏)は35万石×0.05=1万7500人
松代藩(→藩主は真田氏)は10万石×0.05=5000人
〖戊辰戦争における官軍と旧幕府側の戦力差〗
戊辰戦争(1868年1月~1869年5月)における官軍の主力である薩摩藩は延べ7500人、長州藩は延べ4600人を新政府軍に供出しています。延べなので交代制(ローテーション)での戦闘です。ずっと同じ人が戦っていた訳ではありません。松代藩は官軍の中では薩長に次ぐ規模の延べ4200人を動員しています。これは江戸時代後期の松代藩主真田幸貫(ゆきつら→寛政の改革を行った松平定信の次男、徳川吉宗の曾孫、天保の改革では老中の1人)の下で松代藩士佐久間象山(しょうざん)が軍制改革を推進していたので、松代藩には実戦で使える西洋式大砲・西洋式銃が多くあり、征東大総督府(→新政府軍本営)から官軍の主力として飯山、新潟、会津への出兵を命じられたからです。松代藩はペリー来航時なども浦賀や横浜警備などを担当しています。軍備がありすぎるのもデメリットな例です。

(松代藩の文武学校)
根こそぎ動員の東北諸藩
一方、戊辰戦争の際に、旧幕府側(→奥羽越列藩同盟)の会津藩や二本松藩は12~17歳の少年たち(→白虎隊や二本松少年隊など)や、50歳~56歳の年配者(→玄武隊など)、士族の女子(→娘士軍など)まで動員して戦っています。東北諸藩の多くは人口が少ない上に年貢収入も少ないため軍備が整わず、正規軍だけでは兵力不足で戦えなかったからです。新政府軍とまともに戦えたのは米どころで豪商もいて軍備も整っていた庄内藩酒井氏ぐらいなものです。
特に会津藩は主力が鳥羽・伏見の戦い(→戊辰戦争の初戦)で壊滅し、官軍の捕虜となった兵卒も多かったため、会津戦争を女性・子供・高齢者・負傷者も含めて1000名弱で戦わざるを得なかったのです。会津藩兵も必死に戦ってはいましたが、官軍に難なく城下を蹂躙され、連日200発近い砲弾を天守に撃ち込まれながら会津若松城に籠もって「来るはずのない援軍を頼みに」1カ月間堪え忍んだ末に降伏したというのが実情です。この時期、すでに会津藩が援軍を期待した米沢藩上杉氏や仙台藩伊達氏は官軍に恭順(→降伏)する準備をしていました。
白虎隊は地元で美化されていますが、郷土を守る義憤に駆られた会津や二本松の少年兵の多くは敵に一矢も報いることなく戦死し、会津城下や二本松城下に住む一般庶民の多くが、戦火に巻き込まれて家を焼かれ、家族や家財を失ったことを忘れてはいけないと思います。歴史は支配階級の視点からだけでなく民衆側の視点(≒迷惑)からも見なければならないと私は考えます。
官軍(→新政府軍)との戦いを選択した会津藩主松平容保(かたもり)や二本松藩主丹羽長国らは明治時代を生き、のちに松平家も丹羽家も華族となり爵位(→子爵)を賜り特権階級入りしています。現在の徳川宗家の当主は会津松平家の系統です。いつの時代もトップが責任を取らない国の本質は変わらないのだな、とつくづく思い知らされます。
戦地に赴く者にとっては命を懸けるだけの価値や理由(→大義名分)が欲しいでしょう。それがなければ文字通り「犬死」です。一方で為政者にとっては「強制」ではなく「志願兵」だったという都合のよい論理で自己を弁護できます。それが「忠君愛国」の虚像と換言できるかもしれません。
(画像提供: NHK)

(画像提供: NHK)


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