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法泉寺(山梨県甲府市)を訪問しました

金剛福聚山 法泉寺(→山梨県甲府市和田町)は臨済宗妙心寺派の禅刹で、鎌倉時代末期の元徳年間(1329年~1331年)に甲斐守護武田信武が開基し、月舟周勲が開山しました。鎌倉時代を通じて甲斐武田氏は鎌倉幕府の最高実力者である北条得宗家(→北条氏の家督)と親しい関係を築いており、鎌倉幕府滅亡後も北条一族や関係者を匿ったりしていました。それゆえ建武の新政では後醍醐天皇に冷遇され、1335(建武2)年7月に信濃で挙兵した北条時行(→高時の次男)の中先代の乱では北条方に与した武田一族も多かったです。

法泉寺本堂には江戸時代に描かかれた武田勝頼公の肖像勝頼公が出した禁制の実物が掲げられておあり、境内には1582(天正10)年3月11日に滅亡した武田勝頼公の遺髪と歯を埋葬した墓所(→供養塔)のほか、開基した武田信武の墓所があります。

法泉寺勝頼公墓所1
法泉寺の武田勝頼公の墓所5
法泉寺勝頼公墓所2法泉寺勝頼公墓所3法泉寺勝頼公墓所4
(武田勝頼公の墓所)

これが法泉寺にある武田勝頼公の遺髪と歯を埋葬したと伝わる墓所です。1582(天正10)年3月11日に田野(→甲州市)で自害した勝頼公の首は嫡子武田信勝の首とともに最初は飯田(→長野県飯田市)で晒され、次いで小諸城下(→長野県小諸市)で自害した武田信豊(→勝頼公の従兄弟)の首とともに京都の六条河原で晒されました。ただ、これは当時の慣習に則ったものに過ぎず、南化玄興(なんかげんこう→妙心寺の住職)の要請に応じて、織田信長が勝頼公らの首を差し出した(→引き渡した)のはそのためです。勝頼公・信勝・信豊の首は南化玄興によって妙心寺(→京都市右京区)で法要が行われ、戒名が付されました。

妙心寺における勝頼公の戒名は「玉山龍公大禅門」
妙心寺における信勝の戒名は「春山華公大禅門」
妙心寺における信豊の戒名は「英叟智雄禅定門」

妙心寺で法要が行われる前(→火葬される前)に、法泉寺3世の快岳禅師の懸命な働きによって勝頼公の髪と歯を甲府に持ち帰ることを織田信長も許したらしいです。なぜ勝頼公の髪と歯だけだったのかは分かりませんが、『法泉寺ばなし』には境内の首塚に勝頼公の首を埋葬したと記録されていますが、これは史実ではでいでしょう。

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法泉寺の武田信武の墓所1法泉寺の武田信武の墓所2法泉寺の武田信武の墓所3
(武田信武の墓所)

こちらは開基した武田信武の墓所です。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した甲斐武田氏10代当主です(→信玄は19代、勝頼公は20代)。1331(元弘元)年から1333(元弘3)年にかけて畿内を中心に鎌倉幕府への討幕の動き(→元弘の乱)が起こった際、武田信武は北条高時に味方して笠置山に籠もる後醍醐天皇を攻めたため建武の新政では冷遇されましたが、のちに南北朝の動乱観応の擾乱(→足利尊氏と足利義直の兄弟内訌)で足利尊氏に味方したため甲斐国守護になりました。


【法泉寺】
法泉寺1法泉寺2法泉寺3法泉寺4法泉寺5法泉寺6法泉寺7法泉寺8法泉寺9法泉寺10法泉寺11法泉寺12法泉寺13法泉寺14

〖武田勝頼公の肖像画〗
法泉寺の勝頼公肖像

〖武田勝頼公の禁制〗
法泉寺の勝頼公禁制

〖武田勝頼公の位牌〗
法泉寺の勝頼公位牌

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