fc2ブログ

甲斐善光寺(山梨県甲府市)を訪問しました

甲斐善光寺(→山梨県甲府市善光寺)は、正式には「定額山(じょうがくざん) 浄智院 善光寺」という浄土宗寺院です。創建開始は戦国時代中期の1558(永禄元)年のことで、戦国大名の武田信玄第3次川中島合戦の折に善光寺(→長野県長野市)の寺宝が越後の上杉謙信に略奪されたことを知り、次の合戦(→第4次川中島合戦)で善光寺が焼失して秘仏等が失われることを恐れ、家臣に命じて善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を武田氏の本拠の甲府に移転させ、甲斐善光寺を創建しました。本堂は1565(永禄8)年に完成し、入仏供養がその後もしばらく行われました。
江戸時代になると、甲斐国は江戸幕府を開いた徳川氏の領地となり、甲斐善光寺の本尊は、徳川氏によってもとの善光寺(→長野県長野市)に戻され、甲斐善光寺には新たな本尊が定められました。それが現在の善光寺如来だと伝わります。

〖甲斐善光寺の本尊(7年に1度御開帳)〗
甲斐善光寺本尊2


甲斐武田氏滅亡と甲斐善光寺
1582(天正10)年3月11日に甲斐武田氏は織田信長・徳川家康・北条氏直の攻撃であっけなく滅亡しましたが、武田勝頼公らが本拠の新府城(→山梨県韮崎市)を焼いて郡内国衆小山田信茂(のぶしげ)の進言に従い、彼の出城である郡内岩殿城(→山梨県大月市)への逃避行を始めた3月3日、勝頼公一行が甲斐善光寺に到着したとき、重病を患い歩くこともままならない家臣の小幡昌盛が今生の暇乞い(→お別れの挨拶)に訪れ、今夜までに柏尾(→山梨県甲州市)に着くようにして欲しいと進言し、籠に乗ったまましばらく勝頼公の警固をするなど最後の忠節を尽くしました。彼は武田氏滅亡を知ることなく3日後の3月6日に死去したと伝わります。

さて、そんな心温まる家臣もいれば、土壇場で武田勝頼公一行を欺き、滅亡の前日(→3月10日)に武田氏から離反した郡内国衆の小山田信茂(のぶしげ)と小山田八左衛門(はちざえもん)、小山田一族の小菅五郎兵衛らが、『信長公記』によると「土壇場で主君を裏切る古今未曾有の不忠者」として織田信忠(→信長の嫡子)の命令で斬り殺された場所も甲斐善光寺です。他にも、織田信長による徹底した武田氏の残党狩りによって甲斐善光寺で処刑された者の中には、勝頼公の異母弟の葛山信貞(→武田信玄六男)もいます。

このように甲斐善光寺は甲斐武田氏の伝承や史実がつまった寺院といえます。もっとも現在の本堂・山門などは全て江戸時代中期に再建されたもので、武田氏時代の甲斐善光寺はその姿を今は留めていません。

【甲斐善光寺】
甲斐善光寺1甲斐善光寺2甲斐善光寺3甲斐善光寺4甲斐善光寺5甲斐善光寺6甲斐善光寺7甲斐善光寺8甲斐善光寺9甲斐善光寺10
甲斐善光寺本尊3
甲斐善光寺11甲斐善光寺10甲斐善光寺12甲斐善光寺13甲斐善光寺14甲斐善光寺15甲斐善光寺16.5甲斐善光寺16甲斐善光寺17

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ にほんブログ村 旅行ブログ 旅日記・旅の思い出へ
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

img { pointer-events: none; } img { -webkit-touch-callout:none; -webkit-user-select:none; -moz-touch-callout:none; -moz-user-select:none; touch-callout:none; user-select:none; }