芍薬塚(山梨県笛吹市)を訪問しました
芍薬塚(→山梨県笛吹市)は、武田勝頼公の次男(→周哲大童子)の墓と伝わる史跡です。江戸時代に編纂された『甲斐国志』人物部には勝頼公の次男について、「武性院殿齋理周哲大童子 渡辺嘉兵衛ト云(いう)者ニ歳ノ児(ちご)ヲ保護シテ鎮目村ニ匿(かくま)ル、翌未年三月七日夭(よう)スト云(いう)」と書かれています。
戦国時代の1582(天正10)年1月27日に、武田方国衆の木曾義昌(よしまさ)が武田氏から離反して織田信長に臣従したことを皮切りに、織田信長・徳川家康・北条氏直による武田攻めが始まりました。北条氏との戦争が長期化していたため兵力を関東・伊豆方面に分散させていた武田氏は、木曾討伐にも失敗し、かえって織田軍の信濃侵攻を許してしまい、唯一の抵抗を見せた高遠城(→長野県伊那市)を除き、抵抗らしい抵抗もできないまま信濃の諸城は自落(→自ら焼いて撤退)していきました。
そして同年3月3日、勝頼公は居城の新府城(→山梨県韮崎市)を自落させ、家族や家臣を引き連れて郡内国衆小山田信茂(のぶしげ)の出城である岩殿城(→山梨県大月市)を目指して逃避行を開始しました。
その際、笛吹川付近で2歳の次男(→周哲大童子)が病気となり、同行が困難となったため、鎮目(→山梨県笛吹市)に住む武田氏の旧臣渡辺嘉兵衛・瀬兵衛兄弟に次男を託しました。快諾した渡辺兄弟は次男を養育しましたが、病弱だった次男は翌1583(天正11)年3月7日に夭折したため、渡辺兄弟は芍薬を植えた塚をつくり、そこに埋葬したと伝わります。芍薬塚は江戸時代を通じて渡辺家が大切に守ってきたそうです。『甲乱記』の記述により側室の子と思われますが、年齢的に北条夫人の子である可能性も否定できません。
【芍薬塚】
案内板はかなり劣化していて文字の解読が困難なほどでした。以前お参りに来た時は、もっと整備されていたのですが、今回は供養塔が落ち葉に埋もれていたので墓の周りの落ち葉を掃除してから帰りました。
芍薬塚の供養塔は縦1ⅿ、幅39ⅿ、奥行き33ⅿで、「武性院殿齋理周哲大童子」と法諡が彫られていました。
↓↓2010(平成22)年に訪問した時


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