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大井窪八幡神社(山梨県山梨市)を訪問しました


大井窪八幡神社(→山梨県山梨市)は、平安時代前期の859(貞観元)年に清和天皇の勅願により宇佐神宮(→大分県宇佐市)の八幡三神を勧請して創建されたと伝わります。当初は笛吹川の中島の大井俣にありましたが、後に現在地に移ったようです。本殿の祭神は下記の三神ですが、摂社の若宮八幡宮には仁徳天皇が、3つある末社にはそれぞれ武内宿禰(→武内神社の祭神)、藤大臣連保(→高良神社の祭神)、宗像三神(→宗像神社の祭神)がまつられています。

〖祭神〗
誉田別尊(ほんだわけのみこと)→応神天皇のこと
足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)→仲哀天皇のこと
息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)→神功皇后のこと


大井窪八幡神社(→当時は窪八幡宮と呼ばれた)は、戦国時代には甲斐武田氏の崇敬を受け、武田氏の祈願所の一つとされました。戦国大名は神仏の加護を求めてあちこちに氏神を設けて祈願所をつくりました。武田信玄は史料で確認できる限り3度(→1545年、1548年、1553年)、窪八幡宮に板絵や狛犬などを奉納しています。狛犬の銘には「源晴信(→武田信玄)武運長久、国土安穏、社頭栄久」と彫られていて、信玄が武運長久と国土安穏を祈って奉納したことが分かります。また、1557(弘治3)年には第3次川中島合戦の勝利に対する御礼として家臣の甘利昌忠(まさただ)に命じて本殿の扉に金箔を押したと伝わります。

武田勝頼公も窪八幡宮の神託を重視し、年未詳の6月26日に窪八幡宮の大宮司に宛てて、「御遷宮が16日に成就したことはめでたい、いよいよ神前において武田家繁栄、武運長久の祈禱を真心こめて懇(ねんご)ろに祈るように」命じています。

中世の人々は戦争に際しては、信仰する神仏が戦場にやってきて、天上での神同士の戦い(→神戦という)と地上での人間同士の戦いによって最終的に勝利を得ることができると信じていました。神仏に対する祈りが大きいほど加護の力も大きくなり、勝利につながると理解しました。それゆえ、武田信虎も、武田信玄も、武田勝頼公も、勝利を与えてくれたら神領寄進や社殿建立をすると約束をして一層の加護を求めたのです。要はギブ・アンド・テイクの関係なのです。

このように窪八幡宮は甲斐武田氏と密接な関係があったため、1582(天正10)年3月11日に武田勝頼公が自害して武田氏が滅亡すると、乱入してきた織田信忠(→信長の嫡子)軍によって社領を全て没収されました。織田信長が破壊や放火を命じた甲斐の寺社は、ほぼ例外なく武田氏の菩提寺、氏寺、祈願所など、武田氏と密接な関係があった寺社だけで、それ以外の寺社には禁制(→兵の乱暴を禁止する命令など)を出しています。全ての寺社を焼いてしまっては織田氏が甲斐国を支配する際に織田氏を加護する神仏がなくなってしまうからです。これも信長の中の神戦の思想があったからにほかならず、織田信長は特別革新的な人であったわけではなく、中世人の常識観念に収まっていたことが分かります。

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神戦の考え方については当塾のお勉強ブログ(「子孫が語る鎌倉北條氏の真実」)にも詳しく書きましたので興味がある方はご覧ください。
↓↓蒙古襲来について⑤ー神戦について➀ー
↓↓蒙古襲来について⑥ー寺社への恩賞についてー
↓↓神々の苦戦(半死半生・全滅)と中世人の神仏観
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【大井窪八幡神社】
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【案内パネル】
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