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武田神社(山梨県甲府市)を訪問しました

武田神社(→山梨県甲府市武古府中町)は、1919(大正8)年に武田信虎・武田信玄・武田勝頼公と甲斐武田氏3代の政庁兼居館であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に建てられた武田信玄を祭神とする神社です。拝殿の奥に宝物殿があり、武田二十四将図、復元された孫子の旗(→風林火山の旗)、復元された楯無の鎧などが展示されていますが、その多くが江戸時代に作成されたものや復元されたものでした。
「お屋形さまの散歩道」を散策すると躑躅ヶ崎館の遺構や武田勝頼公夫妻も見たであろう甲斐の山々が見渡せて心地よいと思います。武田信虎(→信玄の父)が建てた躑躅ヶ崎館は相川の扇状地上に立ち、北は要害城が扇の要となり、南は広く開けていて、鎌倉(→神奈川県鎌倉市)や一乗谷(→福井県福井市)にも似た景観といえます。お堀に目を移すと鴨やアヒルが気持ちよさそうに泳いでいました。動物を見ると癒されます。

〖祭神〗
武田信玄


躑躅ヶ崎館と甲府城下町
戦国大名へと脱皮した武田信虎(→信玄の父)が1514(大永11)年に築いた川田館(→山梨県甲府市川田町)を引き払い躑躅ヶ崎館(→現武田神社)と甲府城下町の建設に着手したのは1519(永正16)年のことで、その年の暮れには信虎と大井夫人(→信玄の母)が建設途中の館に移り住み、翌年には詰城(→万一の時の駆け込み城)の要害城(→丸山城とも)、1523(大永3)年には城下町南西部の出入口を守る湯村山城の普請を開始して館と城下町の防衛体制を強化しました。
躑躅ヶ崎館建設の開始した年には、長年の宿敵であった伊勢宗瑞(→小田原北条氏の初代)が死去しましたが、武田氏は駿河今川氏親(うじちか)による甲斐侵攻にも苦しめられ、1521(大永元)年11月3日の武田信玄誕生時も今川勢と甲府付近で合戦中のため、信虎は妊娠中の大井夫人を要害城(丸山城)へ避難させています。

政治的に信虎は室町幕府の足利将軍家との結びつきを強め、信虎から信玄に受け継がれた京都志向は、居館や城下町の在り方にも強く反映されました。例えば、1543(天文12)年正月に焼失した躑躅ヶ崎館に、常の間・御主殿といった足利義満「花の御所」を模倣した建物群が建設されたことであり、城下町も京都の条坊制を連想させるように、2町(→約218ⅿ)にも及ぶ直線的な南北街路を5本設定し、これに直交する東西街路の整備も進められました。1545(天文14)年の「一条小路」が史料上の初見となりますが、この時、信虎はすでに信玄らによって駿河に追放されていますので、信虎の甲府の城下町構想は信玄によって引き継がれたといえます。

武田氏の保守性
戦国時代の甲府は、京都を意識して整然と整備されたものの躑躅ヶ崎館周辺の狭い城下町と、その東西出入口に開設された市場地区、甲斐善光寺・一蓮寺の門前町、そして要害城や湯村山城などの城砦が取り巻く外縁地区で構成される複合城下町の形態を呈していますが、本拠としての基本的な姿は、武田氏の勢力伸長や領国拡大があっても変わることはなく、城下町域の拡大も乏しく、人口の増加もそれほど見られず、室町幕府の持つ権力や権威を後ろ盾に自らの領国支配を正当化していた武田氏の、保守的な性格を読み取ることができます。
小田原北条氏が小田原城と城下町域を数代かけて拡張し続け、居館と詰城と城下町を一元化させ、現在の小田原市域を包摂する総構を持つ大城郭に発展させていったことと対照的です。

躑躅ヶ崎館跡
(躑躅ヶ崎館の遺構)


【武田神社】
武田神社1武田神社2武田神社3
武田神社18
武田神社4武田神社5武田神社6武田神社7

武田神社8武田神社9武田神社10武田神社11武田神社12武田神社13武田神社14武田神社15武田神社16武田神社17

【宝物殿】
武田神社宝物館1武田神社宝物館2

【堀】
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