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大善寺(山梨県甲州市)を訪問しました

柏尾山 大善寺(→山梨県甲州市勝沼町)は「ぶどう寺」としても有名な真言宗豊山派の寺院です。奈良時代の718(養老2)年に東大寺の大仏造立に貢献した行基が霊夢(→古代や中世の人が信じた夢のお告げ)により感得したという右手に葡萄(ぶどう)を持ち左手で結印した薬師如来日光・月光菩薩の薬師三尊像を刻み安置したのが創建の由来とされています。奈良時代には聖武天皇から鎮護国家の勅号と大善寺の寺号をもらい、52堂3000坊を数える大寺院だったようですが、平安時代初期にそれらの堂宇は焼失したといいます。
鎌倉時代の1286(弘安9)年に、9代執権北条貞時(さだとき)が本堂の薬師堂を再建して諸仏を納め、さらに南北朝時代に甲斐武田氏の武田信春が寺領を寄進するなど、鎌倉北条氏と甲斐武田氏にも縁の深い寺院であります。

〖大善寺薬師三尊像(5年に1度の御開帳)〗
大善寺薬師三尊像1大善寺薬師三尊像2


武田勝頼公一行が宿泊
そして、大善寺といえば織田信長の号令で始まった武田攻めの際、新府城(→山梨県韮崎市)を自落させ郡内国衆小山田信茂(のぶしげ)の進言に従い岩殿城(→山梨県大月市)を目指して逃避行を開始した武田勝頼公一行は、1582(天正10)年3月3日夕方に柏尾大善寺に入り宿泊しました。ここで武田一族の勝沼信友の娘で、出家して大善寺に居住していた数え年53歳の桂樹庵理慶尼(けいじゅあんりけいに)に出迎えられ、手厚くもてなされたといいます。早朝に出発して途中で落伍する者、逃亡する者が続出し、勝頼公一行の人数はさらに減っていましたが、理慶尼に迎えらえて勝頼公もようやく体を休めることができたのではないでしょうか。

ただ、数え年19歳の勝頼公夫人(→北条夫人)は、すでに自らの運命を悟っており、大善寺の本尊薬師如来に理慶尼とともに夜通し祈願を続けたといいます。『理慶尼記』によると、その時に北条夫人は、

「南無薬師瑠璃光如来(なむやくしるりこうにょらい)、みづから、最期すでに近づきぬると、覚へ(→え)てあり。のちの世には、ひとつ蓮(はちす)の台(うてな)の縁(えん)と、なしたまへ(→え)。」
(南無薬師瑠璃光如来、私たちには最期のときがすでに近づいております。どうぞ、極楽浄土では(夫の勝頼公と)同じ蓮の花の上で身を寄せ合えるようにしてください。)

と繰り返し祈り続けたと書かれています。「一つ蓮の台の縁」とは仏教用語の「一蓮托生」という意味です。よい行いをした(→生前に功徳を積んだ)複数の人は、死後に極楽浄土で蓮華の花(→神聖な場所)の上に生まれ変わり身を寄せ合えるという意味です。北条夫人は、死後も極楽浄土で勝頼公と身を寄せ合うことを夜通し薬師如来に祈り続けたのです。夫婦仲の良さ、夫婦の絆の強さが窺えます。

祈りの中で、北条夫人は極楽浄土への往生を願って、柏尾(→山梨県甲州市)は韮崎(→山梨県韮崎市)より東にあることから、次のように詠じたと書かれています。

西をいで 東へゆきて 後(のち)の世の 宿(しゅく)かしわをと 頼む御(み)ほとけ
(西を出で 東へ行きて 後の世の 宿柏尾と 頼む御仏)


さらに、翌朝(→3月4日)早朝に駒飼宿に向かって出立する時には、夜のうちに警固の武士たちもおおかた逃げてしまって、特に馬を引く馬子まで逃げ失せてしまい、200人近くいた女房たちも落伍した者が多く、残っている者もすで草履がすり切れ、血だらけの素足での移動となり、駒飼宿までの道程がいよいよ過酷なものになることから、北条夫人は次のように詠じたようです。

ゆきさきも たのみぞうすき いとどしく 心よは身か やどりきくから
(行先も 頼みぞ薄き いとどしく 心弱(こころよわ)身か 宿りきくから)

北条夫人肖像2



勝頼公一行にいた親族
丸山和洋氏によると、「勝頼はあくまで再起を図るつもりであった。新府城に火を放ったのも、それが城を退去する際の慣習であったために過ぎない。何よりも、従兄弟の(武田)信豊に、上野(こうずけ→群馬県)での再起を託したのが、その証拠である。」と述べています。ただ、武田信豊は上野の箕輪城代内藤昌月(まさあき)や岩櫃城代真田昌幸(まさゆき)・国峰国衆小幡信真(のぶざね)らと合力する途上の小諸城(→長野県小諸市)で城代の親類衆下曾根浄喜(しもそねじょうき)に裏切られ、武田氏滅亡の5日後の3月16日に最期を遂げています。

さて、『信長公記』や『甲乱記』によると勝頼公一行に加わっていた親族は、北条夫人(→正室)、高畠のおあひ(おあい→側室)、御太方様(おだいほうさま→勝頼公の母方祖母)、武田信勝(→勝頼公の嫡子)、松姫(→勝頼公の異母妹)、京で生まれた信虎(→勝頼公の祖父)の末娘信虎縁の女性大龍寺麟岳(りんがく→勝頼公の従兄弟)、であったと書かれています。

しかし、御太方様(→勝頼公の母方祖母)は勝頼公の配慮で信濃へ退去し、松姫は勝頼公の指示で別ルートで八王子(→東京都八王子市)を目指しますことになります。ただ、新府城出発から大善寺到着までは甲府の一条信龍館や甲斐善光寺で小休止をとったぐらいの強行日程だったので、松姫と彼女が連れていく貞姫(→勝頼公三女)、督姫(→仁科信盛の娘)、仁科信基(のぶもと→仁科信盛の長男)、小山田信茂の養女も、この日は大善寺に宿泊したものと思われます。

なお、鎌倉時代に北条貞時が再建し、戦国時代に北条夫人が夜通し祈りを捧げた大善寺の本堂(薬師堂)は、1954(昭和29)年に大規模な修理を行い翌年国宝に指定されました。


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大善寺は、幕末に新撰組(しんぜんぐみ)局長の近藤勇(いさみ)が大善寺境内の柏尾坂で東征軍(→新政府軍・官軍)を相手に戦った場所とも伝わります。しかし、やはり私にとっては北条貞時が再建した本堂(薬師堂)をもつ、理慶尼が勝頼公と北条夫人をもてなしてくれた寺という印象が全てです。

境内には武田氏滅亡の29年後、江戸時代初期の1611(慶長16)年に亡くなった理慶尼の墓所があります。彼女は亡くなるまでの29年間の間に「理慶尼記」を書きあげたのでしょう。「理慶尼記」は新人物往来社『武田資料集』に「甲乱記」などとともに収録されています。


〖理慶尼の墓所(供養塔)〗
理慶尼の墓所1理慶尼の墓所2理慶尼の墓所3


【大善寺】
大善寺1大善寺2大善寺3大善寺4大善寺5大善寺6


岩殿城までの道程
新府城から郡内岩殿城までの行程は、上野晴朗氏の研究によると次のようになります。なお、赤字は北条夫人が歌を詠んだとされる場所になります。

●3月3日(韮崎市→甲斐市→甲府市→笛吹市→甲州市)
新府城(明け方・火を放ち出発)→光明寺踊躑原(おどりはら)→北下条相垈(あいぬた)→権現沢涙の森(阿弥陀の森)上ノ山回看塚(みかえりづか)→法喜院宇津谷妙善寺志田下今井泣き石塔の越竜地島上条千松橋甲府(昼・一条信龍屋敷で休息)→大泉寺甲斐善光寺(病身の小幡昌盛が暇乞いに参上)→石和春日居の渡し場(発病した数え年2歳の勝頼公次男を渡辺嘉兵衛・喜兵衛兄弟に託す)→田中下矢作小城中尾南野呂下岩崎上岩崎柏尾大善寺(夜・理慶尼がもてなし宿泊、北条夫人は一晩中薬師堂で祈りをこめて夜を明かす)

●3月4日(甲州市)
柏尾大善寺横吹鶴瀬駒飼宿(ここで小山田信茂の迎えを3月10日まで待つ)
駒飼宿での7日間の浪費が致命的となった。3月10日に小山田信茂は人質の老母を勝頼公一行から連れ出すと、笹子峠を封鎖して武田氏から離反。松姫らは3月4日~10日の間に勝頼公の指示で別ルートで移動・潜伏を行ったものと推察されます。

●3月10日~11日(甲州市)
駒飼宿水田野田野(織田方の滝川一益勢の襲撃を受け、武田氏滅亡。勝頼公は北条夫人に小田原への帰国を説得しますが、彼女もまた頑として首を縦に振りませんでした。)
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