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恵林寺(山梨県甲州市)を訪問しました

乾徳山 恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山にある釈迦如来像を本尊とする臨済宗妙心寺派の禅刹で、甲斐国の臨済宗の中心的な寺院です。境内には武田信玄の墓や柳沢吉保(よしやす→江戸幕府5代将軍徳川綱吉の頃の甲府藩主)の墓があります。恵林寺の創建は鎌倉時代末期の1330(元徳2)年で、北条高時足利尊氏など鎌倉時代末期から南北朝時代前期の最高権力者の帰依を受けた夢窓疎石(むそうそせき)が開基しました。

戦国時代になると甲斐国内の争乱などで寺は荒廃しましたが、守護の武田氏が菩提寺に定め、京都から高僧を招いて寺を復興しました。さらに1564(永禄7)年には武田信玄が寺領を寄進して、美濃国(→岐阜県)の崇福寺から快川紹喜(かいせんしょうき)を住職として招きました。快川紹喜は「国師」の尊号が与えらえた高僧で、武田信玄の学問や思想に少なからず影響を与えた人物です。また、甲斐武田氏の軍旗である「孫子の旗(→風林火山)」は快川紹喜の筆によるものと伝わります。余談ですが、伊達政宗(だてまさむね)の師ともいえる虎哉宗乙(こさいそういつ)は快川紹喜の弟子の1人です。

恵林寺は武田信玄の葬儀の場でもあります。信玄死は10日足らずで織田氏・徳川氏・上杉氏など近隣諸国に知れ渡っていましたが、武田勝頼公は父信玄の「三年秘喪」(→三年間我が死を隠せ)の遺言を守り、信玄3周忌の1576(天正4)年4月16日に快川紹喜を大導師、勝頼公を喪主に武田一族のほぼ全てが参列する武田信玄の葬儀を恵林寺で行っています。

武田信玄の墓
(武田信玄の墓)

武田氏滅亡と恵林寺炎上
1582(天正10)年3月11日に甲斐武田氏を滅ぼし、さらに武田氏の一族や有力家臣・国衆を探索して処刑を継続していた織田軍は、各地で武田氏の菩提寺、祈願所、氏寺など、武田氏と密接な関係のある寺社(→恵林寺・慈眼寺・窪八幡宮・金櫻神社など)を焼亡させ、武田氏の影響力を消し去ろうとしていました。

武田氏や上杉氏などは征服地の地域社会に強く根を張る寺社や有力国衆をできるだけ従属させて、その勢力温存して勢力の拡大をしていきました。しかし、それによって、武田氏や上杉氏は領国内に強力な支配(→公権力)を構築することはできませんでした。しかし、織田信長は武田氏から離反した国衆(→小山田信茂ら)や織田軍に抵抗しなかった武田家臣(→山県・馬場・長坂など)を探索できる限り族滅させ、将来織田氏の甲斐支配に際して抵抗勢力になりうる勢力の根絶やしを図り、強力な支配の構築を目指しました。その中で、もっとも悲惨な運命をたどったのが武田信玄の墓所があり、武田氏の菩提寺として知られる恵林寺でした。

織田信長が甲府に入った1582(天正10)年4月3日、恵林寺は武田氏を滅ぼした織田信忠(→信長の嫡男)の軍によって包囲されました。『信長公記』には織田氏の敵である六角次郎を寺内に匿ったことを挙げていますが、武田氏の菩提寺である恵林寺を全山放火することで、武田氏の滅亡と織田氏の隆盛を内外に誇示するねらいがあったと推察され、それを信長の甲府到着と同時に行ったのは、信長の命令なのか信忠の配慮なのかは分かりませんが、政治的意図によるものだと思われます。

快川紹喜は織田氏の使者からの難癖ともいえる訴追にも平然としていたといい、織田軍は快川紹喜をはじめ50人程の寺僧を恵林寺山門の楼上に昇らせると、脱出できないように梯子(はしご)を外し、恵林寺門前の草屋を壊してこれを山門の下に積み重ねて火を放ちました。猛火はたちまち山門を包み、地獄図のような光景になりますが、快川紹喜だけは泰然自若として動じることなく亡くなっていく姿は、敵方の『信長公記』にも記され、織田方からも賞賛されています。

「滅却心頭火自涼」は高山和尚の遺偈
織田軍に放火され炎上する山門楼上で快川紹喜は、有名な安禅不必須山水、滅却心頭火自涼(→安禅は必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し)という偈(げ→仏典の教え)を唱えたと伝わります。ただし、これは彼の創作ではなく、『碧巌録(へきがんろく)』に記された唐(→奈良時代の頃の中国)の詩人の七言絶句の一節です。『甲乱記』にはこの偈を唱えたのは快川紹喜ではなく、ともに焼死した高山和尚であったと記していて、平山優氏などの研究家も唱えたのは高山和尚としています。しかし、快川紹喜の知名度と織田方からの賞賛などもあり、世間では快川紹喜の遺偈(いげ)として伝わっていきました。

快川の木像1
(快川紹喜の木像)


〖恵林寺山門〗
織田軍の放火によって焼亡したため江戸時代に再建されました。
恵林寺山門1恵林寺山門2恵林寺山門3恵林寺山門3恵林寺山門4
快川らの供養碑1快川らの供養碑
(快川紹喜ら寺僧の供養塔)

【恵林寺】
うぐいす廊下(→音が鳴る廊下)、武田家臣団の位牌、武田信玄の生き写しと伝わる武田不動尊があります。本堂の裏には武田信玄墓所、武田家臣団の墓所、柳沢吉保の墓所、二階堂堂蘊(どううん→鎌倉幕府末期に活躍した北条氏御内人)の墓所、国指定名勝の恵林寺庭園があります。

恵林寺の武田不動尊1ー1
恵林寺の武田不動尊2-2
(武田不動尊)

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恵林寺
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【恵林寺庭園】
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恵林寺庭園恵林寺庭園

〖武田信玄公宝物館〗
武田信玄・武田二十四将・柳沢吉保らの史料が展示されています。肖像画・古文書が主な展示品ですが見ごたえがあります。なお、恵林寺版の武田二十四将は、露骨に武田勝頼公が外されて以下の人物となります。(→〇〇)は近年の研究で実名が判明した人たちです。

武田信繁武田信廉穴山信君板垣信方甘利虎泰馬場信春飯富虎昌山県昌景・高坂昌信(→春日虎綱)・真田幸隆(→真田幸綱)・内藤昌豊(→内藤昌秀)・秋山信友(→秋山虎繁)・三枝守友(→三枝昌貞)・原虎胤小山田信茂多田満頼真田信綱・土屋昌次(→土屋昌続)・横田高松小幡虎盛曾根昌世原昌胤真田昌幸・山本勘助(→山本菅助)

なお「武田二十四将」は江戸時代に創始されたもので寺社によって顔ぶれはバラバラです。 またニ十四将は信虎・信玄・勝頼公の時代に活躍した武将なので年齢に開きがあり一同に揃ったことはありません。武田勝頼公の家臣を中心とした「武田勝頼二十四将図」(→山梨県立博物館所蔵)というものもあります。

恵林寺の宝物館0

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