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駒飼宿(→山梨県甲州市)を訪問しました

駒飼宿(→山梨県甲州市大和町)は、江戸時代に宿場として栄えましたが、戦国時代の1582(天正10)年3月4日夜明けとともに、武田勝頼公一行は柏尾大善寺(→山梨県甲州市勝沼町)を出発し、笹子峠の手前の駒飼宿石見某(なにがし)のもとに到着しました。現在は国道20号線となっている大善寺から駒飼宿までの甲州街道沿いや田野古戦場には、後世の人によって創作された「武田不動尊」「日向の宮での軍旗掲揚」「日影の宮での軍旗降下」「鞍懸」「血洗沢」「武田勝頼公腰掛石」「大蔵原思案石」など、たわいもない伝説からそれらしいものまで様々な勝頼公伝説が残されています。中でも横吹という村落に勝頼公が守り本尊の不動尊を置いていったという伝説はまことしやかに地元で語り伝えられており、「武田不動尊」として今でも祀られています。

武田勝頼公
(高野山成慶院所蔵)

駒飼宿で遺品を託す
武田勝頼公は駒飼宿の石見某の屋敷で郡内国衆小山田信茂(のぶしげ)の迎えを待つことにしました。しかし、勝頼公は自らの運命を悟っていたのでしょう。自身の遺品を高野山に送り菩提を弔ってもらうことを考え、甲斐武田氏の祈願所の一つである慈眼寺(→山梨県笛吹市)の僧尊長(そんちょう)に遺品と金子(きんす)を託し、遺品を高野山引導院(持明院)に送り届けるように依頼しています。尊長はこれを承知し、勝頼公の滅亡後の4月15日に、慈眼寺を訪れていた根来寺住山の空円房に遺品と金子10両を託し、高野山に納めさせています。この遺品の中には著名な「武田勝頼・同夫人・信勝像」が含まれています。しかし、こうした武田氏との密接な関係を織田氏に咎められ、慈眼寺は織田軍の掠奪・放火によって灰燼に帰したと伝わります。

武田勝頼・同夫人・信勝像
(高野山成慶院所蔵)

小山田信茂の離反
勝頼公は3月4日から10日まで駒飼宿で小山田信茂からの迎えを待ちました。しかし、勝頼公も北条夫人もすでに運命を悟っていたため、この期間に異母妹の松姫に三女貞姫らを連れて別ルートで逃げるように指示したものと思われます。そうした所、信茂の従兄弟の小山田八左衛門尉(はちざえもんのじょう)が宿所を訪れ、まず信茂の老母を引き取り、岩殿城(→山梨県大月市)に御台所(→北条夫人)の御座所を用意したら改めて迎えに参上すると申し出ました(『甲陽軍鑑』)。

しかしその後、小山田信茂と信茂の相婿武田信堯(のぶたか→勝頼公の従兄弟)が笹子峠を封鎖して武田氏を離反したことが判明し、行き場を失った勝頼公は、同行する従兄弟の大龍寺麟岳(りんがく→武田逍遥軒信綱の子)に落ちのびて一族の菩提を弔って欲しいと求めます。しかし麟岳は、武田一門である以上勝頼公一族を見捨てるわけにはいかないと謝絶し、勝頼公と運命を共にすると伝えました(『甲乱記』)。
ただ、『三河物語』には小山田八左衛門は勝頼公と行動を共にしており、小山田信茂からの迎えが来ないので、勝頼公は八左衛門を使者として小山田信茂のもとに遣わせた所、信茂はすでに変心して笹子峠を封鎖しており、八左衛門も帰って来なかったとあります。

また、勝頼公は数え年19歳の北条夫人にここから相模は近いから、付家臣(→剣持但馬守ら)に護衛されて小田原に戻るように説得しましたが、彼女は頑なに首を縦にふることなく、涙ながらに次のように勝頼公に答え、和歌を詠じたといいます(『理慶尼記』)。

「ひとつ蓮(はちす)の台(うてな)の縁(えん)と、おもひ染めたるむらさきの、雲の上まで変わらじと、契りを結ぶ玉の緒の、あらんかぎりはもとよりも、絶へての後(のち)も別れめや。」
(極楽浄土でも身を寄せ合いたいと思うほど、あなたを思い染めております。生きている間はもちろん、死んだ後もあなたと離れたくありません。)

野辺の露 草葉の外(ほか)に きへて後(のち) たいあらはこそ たき所入(いれ)
(野辺の露 草場の外に 消えて後 体あらばこそ たき所入)
→極楽浄土に生まれ変わったあとも一緒にいたいのですという意味です。

北条夫人肖像2
(高野山成慶院所蔵)

天目山 捿雲寺を目指す
勝頼公は室町時代の1416(応永23)年、上杉禅秀の乱で上杉方に味方したとして室町幕府の討伐を受けた甲斐国守護武田信満が自害した天目山 捿雲寺(せいうんじ→山梨県甲州市大和町木賊)を最期の地と定め、一行は1582(天正10)年3月11日早朝に駒飼宿を出立し、木賊山(とくさやま)に入るため日川渓谷に足を向けました。しかし、捿雲寺への道はすでに織田方に付いた辻弥兵衛率いる地下人や甘利左衛門尉・大熊備前守・秋山摂津守ら寝返り武将らが織田軍の先方隊である滝川一益・河尻秀隆を手引きして勝頼公一行に鉄砲を撃ちかけてきたため、勝頼公一行は進むことも退くこともできずに田野で進退が窮まりました。



【駒飼宿】
駒飼宿

【周辺の勝頼公伝説】
(1、武田不動尊)
横吹という村落に勝頼公がお世話になった村人に守り本尊の不動尊を置いていったという伝説です。村人は祠を建てて「武田不動尊」として祀ったと伝わります。ありそうな話といえばありそうな話ですし、伝承の域を越えないといえばそうなります。
武田不動尊(甲州市)


(2、鞍懸)
逃亡した長坂釣閑斎光堅(ながさかちょうかんさい こうけん)が勝頼公近習の土屋昌恒(まさつね)に追われ、馬から落ちた鞍が路傍の桜の木にかかっていたという伝説です。ただ、長坂光堅は3月10日に以前に姿をくらましており、甲府で父子ともに織田信忠(→信長の嫡子)に処刑されているので、これも伝承の域を越えないと思われます。
鞍懸

(3、血洗沢)
勝頼公近習の土屋昌恒が逃亡した跡部勝資(かつすけ)を斬り捨て、血のついた刀身を洗ったと伝わる史跡です。ただ、跡部勝資は田野合戦で勝頼公に殉じていますので、これは誤伝がまことしやかに語り伝えられた史跡といえます。
血洗沢

(4、武田勝頼公腰掛石)
駒飼宿に滞在中に勝頼公が周囲を警戒するために腰を下ろしたと伝わる石。民家の中にあります。ただ、勝頼公は石見某の宿所に滞在していますので伝承の域を越えません。腰掛石は全国あちこちにあります。勝頼公に関する腰掛石は甲州市だけでも3ヶ所あります。
武田勝頼公腰掛石

(5、大蔵原思案石)
天目山捿雲寺への道が織田方に通じた地下人や寝返り武将らによって封鎖されたため、勝頼公が進むか退くかを路傍の石に腰を降ろして思案したと伝わる史跡です。これもおそらく後世に作られた伝承だと思われます。
大原思案石1大原思案石2


岩殿城までの道程
新府城から郡内岩殿城までの行程は、上野晴朗氏の研究によると次のようになります。なお、赤字は北条夫人が歌を詠んだとされる場所になります。黄色い場所が本日紹介した場所となります。

●3月3日(韮崎市→甲斐市→甲府市→笛吹市→甲州市)
新府城(明け方・火を放ち出発)→光明寺踊躑原(おどりはら)→北下条相垈(あいぬた)→権現沢涙の森(阿弥陀の森)上ノ山回看塚(みかえりづか)→法喜院宇津谷妙善寺志田下今井泣き石塔の越竜地島上条千松橋甲府(昼・一条信龍屋敷で休息)→大泉寺甲斐善光寺(病身の小幡昌盛が暇乞いに参上)→石和春日居の渡し場(発病した数え年2歳の勝頼公次男を渡辺嘉兵衛・喜兵衛兄弟に託す)→田中下矢作小城中尾南野呂下岩崎上岩崎柏尾大善寺(夜・理慶尼がもてなし宿泊、北条夫人は一晩中薬師堂で祈りをこめて夜を明かす)

●3月4日(甲州市)
柏尾大善寺横吹鶴瀬駒飼宿(ここで小山田信茂の迎えを3月10日まで待つ)
駒飼宿での7日間の浪費が致命的となった。3月10日に小山田信茂は人質の老母を勝頼公一行から連れ出すと、笹子峠を封鎖して武田氏から離反。松姫らは3月4日~10日の間に勝頼公の指示で別ルートで移動・潜伏を行ったものと推察されます。

●3月10日~11日(甲州市)
駒飼宿水田野田野(織田方の滝川一益勢の襲撃を受け、武田氏滅亡。勝頼公は北条夫人に小田原への帰国を説得しますが、彼女もまた頑として首を縦に振りませんでした。)
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