大泉寺(山梨県甲府市)を訪問しました
万年山 大泉寺(→山梨県甲府市古府中町)は、戦国時代の1521(大永元)年に甲斐国守護の武田信虎(→信玄の父)が開基した釈迦如来を本尊とする曹洞宗寺院です。この年は駿河今川氏に甲府まで攻め込まれ、懐妊中の信虎夫人(→大井夫人)を要害山城(→山梨県甲府市上積翠町)に避難させ、そこで武田信玄が誕生した年でもあります。甲斐国を卓越した手腕で統一して戦国大名となった武田信虎は、信玄顕彰のために著された『甲陽軍鑑』によって「暴君」にされてしまいイメージダウンしていますが、実際は甲府に躑躅ヶ崎館を中心とした京都を模した城下町を形成して寺社を移転させるなど、軍事面でも行政面でも優れた実績を残しています。家族への接し方などはむしろ冷徹な信玄よりも遥かに人間味があるように見受けられます。







信虎は、1541(天文10)年6月14日に嫡子信玄を擁立する板垣信方・甘利虎泰らのクーデターにより駿河国(→静岡県)に追放されましたが、駿河今川氏では「一門待遇」を受け、さらに1543(天文12)年6月には上洛して京都から奈良・高野山(→武田氏と檀家関係のあった引導院)を巡り、甲斐国守護の時代より親交のあった石山本願寺(→大阪府大阪市)の本願寺顕如にも使者を派遣して挨拶を交わしています。畿内の情報をもって駿河に戻りましたが、1550(天文19)年6月2日に今川義元の正室となっていた娘(→定恵院)が死去し、ひどく落胆しています。信虎は京都に屋敷を持ち、公家の山科言継(ことつぐ)と交流したり、室町幕府の13代将軍足利義輝のもとで在京奉公をするなど、前甲斐国守護として儀礼的にも高い地位を保持していました。
1573(元亀4)年4月12日に武田信玄が死去すると、信虎は翌1574(天正2)年に末の娘らを連れて、信虎三男の武田逍遥軒信綱(→信廉)の居城である高遠城(→長野県伊那市)に身を寄せ、家督を継いだ武田勝頼公とも対面したといます。しかし、同年3月5日に高遠城で81歳で死去しました。葬儀は信虎が創建した甲府の大泉寺で行われ、供養は高野山成慶院で実施されました。それゆえ、大泉寺の本堂奥には武田信虎廟と信虎墓所があるのです。墓所には武田三代(→信虎・信玄・勝頼公)の卒塔婆もありました。

(大泉寺所蔵)
【大泉寺】



【武田信虎廟】



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