中世の武家文書の様式について
中世に新しく歴史の表舞台に登場してきた武家も、「下文(くだしぶみ)」や「下知状(げちじょう)」などの貴族たちが用いてきた官文書由来の文書を使用しましたが、その一方で、書状(しょじょう→手紙)に由来する「御教書(みきょうじょ)」などの書札様(しょさつよう)文書も公文書として用いました。ただ、用途には違いがあります。
「御教書(みきょうじょ)」とは三位以上の公卿(→貴族のトップクラス)の意志をその家の家司(けいじ→家来)に奉じた文書のことです。征夷大将軍は従一位~正二位以上の公卿が任官する官途なので、朝廷の貴族からみてもとてもエライ人なのです。





その征夷大将軍が御家人など家来に書状を出す場合は、将軍本人が直接命令を伝える「直状(じきじょう)」という形式と、将軍に代わって秘書役(→執権など)の人が将軍の意志を伝える「奉書(ほうしょ)」という形式が用いられました。
(1)直状(じきじょう)

この「直状」でもっとも尊大でエラそうな書状が「袖判(そではん)」と呼ばれる書札様式です。日付の下などに花押(→サイン)を書くのですが、これにも下記の➊~❻の形式がありました。下にいくほど宛先への敬意が増していきます。
➊花押のみ
❷官途+花押
❸官途+姓+花押
❹官途+実名+花押
❺官途+姓+実名
❻官途+姓+実名+裏に花押
宛名を日付より上に書くか下に書くかによっても敬意(あるいは侮蔑)を表します。
➀宛名が日付より上 ➡敬意を持っている
➁宛名が日付より下 ➡見下している
〖直状(じきじょう)の具体例〗

1352(正平7)年正月10日に、室町幕府初代将軍足利尊氏が島津忠兼に発給した直状(じきじょう)の袖判(そではん)文書です。尊氏が実弟の足利義直(ただよし)と殺し合いをした観応の擾乱における勲功の恩賞として相模国山内荘内岩瀬郷(→神奈川県鎌倉市)を与えるという内容です。
家来に対する恩賞給付なので鎌倉幕府初代将軍源頼朝に倣って最も尊大な態度を示す袖判下文(そではんくだしぶみ)で直状を出しているのでしょう。なお、この時期、尊氏は関東に出陣して京都の守りが手薄になるため一時的に南朝と和睦したため、南朝の「正平」の年号を使用しています。
(2) 奉書(ほうしょ)

鎌倉幕府を実質的に支配していたのは執権北条氏で、鎌倉時代後期になると得宗(→北条氏の家督)が北条一門や御内人(みうちびと→側近)と寄合(よりあい)を開いて政治を行っていました。しかし、形式的であっても幕府の長は征夷大将軍ですので、得宗や執権・連署(→執権の補佐)からの命令は、将軍(→摂家将軍や親王将軍)の意志を伝えるという奉書形式の文書様が用いられました。
文末が「仰せにより執達(しったつ)件(くだん)の如し」などという書止めになっているのが特徴です。「将軍様の仰せにより申し上げます」という意味です。政所(→幕府の財政機関)や得宗家公文所(→北条得宗家の家政機関)の者が出す書状も同じ形式です。あくまでもご主人様の仰せにより自分が代筆しています、という形式で文書を発給しました。
〖奉書(ほうしょ)の具体例〗

1302(乾元元)年12月23日に、鎌倉幕府の10代執権北条師時(もろとき)と連署の北条時村が、8代将軍久明(ひさあきら)親王の仰せを受けて田代基綱(たしろもとつな)に発給した下知状です。冒頭に要件を書き、文末に「仰せにより下知(げち)件(くだん)の如し」という上意下達文言で、執権と連署とも「官途+本姓(→北条氏は平氏)+花押」という上記の敬意表➊~❻の❸の形式をとっています。
内容は、田代基綱の亡父家綱(いえつな)の遺領である和泉国大島郷上条村(→大阪府堺市)と近江国三宅郷(→滋賀県守山市)について、女子の相続分を除いて田代基綱が相続することを認める「譲与安堵」の下知状となっています。

1291(正応4)年12月7日に、鎌倉幕府の将軍家政所(→将軍家の家政機関)が、8代将軍久明(ひさあきら)親王の仰せを受けて播磨国の御家人惟宗行景(これむねのゆきかげ→島津行景)に発給した下文(くだしぶみ)です。これも冒頭に要件を書き、政所執事(→長官)の二階堂行家だけでなく、9代執権北条貞時と連署北条宣時(むねとき)が署名しています。3名とも「官途+本姓+花押」という上記の敬意表➊~❻の❸の形式をとっていて、文末は「仰せにより件(くだん)の如し」という奉書形式がとられています。
内容は、惟宗(島津)行景に亡父忠行(ただゆき)の譲状(ゆずりじょう)の通りに、播磨国下揖保荘半分(→兵庫県たつの市)を地頭として支配せよという「譲渡安堵」の下文となっています。
**************
余談ですが、執権も連署も実質的に鎌倉幕府の政務のトップにあたる役職ですが、官途の「相模守」や「陸奥守」という受領は朝廷内ではそれほど高い地位ではありません。正四位~従五位の位は中・下級貴族のランクなので、3代執権北条泰時と連署北条時房は、幕府軍が朝廷軍を完膚無きまでに叩き潰した承久の乱の直後であっても、公卿(→貴族のトップクラス)に宛てた書状には上記の敬意表➊~❻の❻という、「官途+本姓+実名」のうえ書状の裏側に花押(→サイン)まで書く最高度の敬意を表す書状を送っています。彼らの人柄が偲ばれます。


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コメント
ありがとうございます
鎖国令と奉書船の関係もすごくよく分かりました
ありがとうございました
2022-07-08 17:48 えまみ URL 編集
Re: 質問よろしいでしょうか
コメントありがとうございます。
老中奉書は江戸幕府の老中が将軍の意を奉じて発給する公文書ですが、幕府の命令を伝えるものからお歳暮や献上品の御礼まで内容は様々です。最初の鎖国令である寛永十年令(1633年)は、海外居住5年以上の者の帰国の禁止と老中発行の渡航許可証を所持する奉書船以外は海外渡航できないという内容ですが、この渡航許可証が老中発行の老中奉書にあたります。海外渡航の制限は3代将軍徳川家光の上意(意志)で、老中がその意を奉じて文書にしていますので「奉書」にあたります。江戸時代の奉書は鎌倉時代の頃とは異なり文末が「恐々謹言」となっているものが多いです。
2022-07-08 15:07 副会長 西住りほ URL 編集
質問よろしいでしょうか
2022-07-08 07:39 えまみ URL 編集
すごっ!!
作った人が公卿かどうかの違いだったんだ!!!
あざーした!!!
2022-06-10 21:39 美作守 URL 編集
Re: 質問
コメントありがとうございます。
ご質問にある政所と公文所はどちらも家政機関の名称です。「政所」はもともと平安時代に皇族や従三位以上の官位を持つ公卿(→貴族の最高ランク)の家政機関でした。家政機関とは各地にある荘園やそこからの収益を管理する専門家集団だと思ってください。摂政・関白は公卿しか就任できませんので、摂関家の家政機関は「摂関家政所」と呼ばれました。職員もたくさんいます。「公文所」は従五位~正四位の官位を持つ中・下級貴族の家政機関の名称です。
鎌倉幕府も「鎌倉殿」の所領を管理するため1184(元暦元)年に大江広元を別当(→長官)に家政機関(→職員は広元を入れて6名)を創設しましたが、源頼朝の官位は「正四位下」なので、貴族ではありますが公卿ではありません。だから当初は「公文所」と呼ばれました。
頼朝は1189(文治5)年に「正二位」に昇進して公卿になります。公卿に許される政所開設の権利を得たため、1191(建久2)年に公文所を「政所」に改称し、さらに1192(建久3)年に征夷大将軍に任官されたのちは「将軍家政所」に改組して、別当(→長官)・令(→次官)・案主・知家事などの役職を整えました。しかし、頼朝存命中の鎌倉幕府は頼朝のワンマン経営だったため、政所が政務機関として実際に機能するようになるのは北条氏による執権政治が展開された頃からです。
ちなみに北条氏の得宗家(→家督)も鎌倉時代中期以降になると所領が急増しましたので「得宗家公文所」を創設し、所領の管理を得宗被官(→御内人)に任せました。得宗も官位は従五位~従四位でしたので貴族ではありますが公卿ではありません。なので政所ではなく「公文所」なのです。長官を執事といい「内管領(うちかんれい)」とも呼ばれました。足利氏や北条氏の有力庶家も独自に公文所(→政所を自称する家もある)を設置して所領の管理を行っていました。
2022-06-10 19:45 西住りほ URL 編集
質問
政所と公文書って何が違うんですか??
鎌倉幕府も始めは公文書だったのに突然政所に変わってますよね??!
2022-06-10 17:26 美作守 URL 編集