乃木神社(東京都港区)を訪問しました
乃木神社(→東京都港区赤坂8丁目)は、明治時代の軍人・乃木希典(のぎまれすけ)と妻・乃木静子(のぎしずこ)を祭神として祀る神社で、大正時代末期の1923(大正12)年11月1日に創建されました。神社に隣接する乃木公園には旧乃木邸は乃木希典夫妻が明治天皇の大葬の日に殉死する当日まで暮らしていた邸宅や厩舎・菜園などがあります。旧乃木邸については後日ご紹介いたします。
































































〖祭神〗
・乃木希典(のぎまれすけ)
・乃木静子(のぎしずこ)
〖摂社〗
・正松神社……1963(昭和38)年創建。
→乃木希典が師事した玉木文之進とその甥の吉田松陰を祀る。
〖末社〗
・赤坂王子稲荷神社 ……1962(昭和37)年創建。
→乃木希典が崇敬していた王子稲荷神社を勧請。
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乃木希典とは?
乃木希典(1849年~1912年)は長州藩の支藩である長府藩士の三男として江戸の長府藩上屋敷(→東京都港区六本木)で生まれました。明治時代には陸軍軍人として西南戦争(1877)年では歩兵第14連隊長心得(こころえ→代理)を務めますが、天皇から下賜された連隊旗を田原坂の戦いで西郷軍に奪われ、終生乃木を苦しめたと言われています。日清戦争(1894年~1895年)では第1旅団長として清軍の旅順城を1日で攻略して占領しました。日清戦争後の1896(明治29)には台湾総督にもなっています。
乃木の名前を世界的に有名にしたのが日露戦争(1904年~1905年)です。乃木は陸軍大将として第三軍司令官に就任し、難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃して多くの犠牲者を出しましたが、1904(明治37)年12月5日に203高地を占領して旅順要塞を攻略し、1905(明治38)年1月1日に旅順要塞司令官ステッセル中将の降伏の申し入れを受け入れ、1月5日に水師営で会見しました。3月の奉天会戦でも乃木の第三軍は北方に退くロシア軍と激戦を展開して勝利しています。
旅順陥落までの戦闘で多くの兵士を無謀な突撃で無駄死にさせたという批判がある一方で、自身の2人の子息も同戦闘で戦死していることから悲劇の将軍として当時は国民的敬愛を集めました。歌人与謝野晶子(よさのあきこ)の24歳の弟も旅順攻撃に参加しており、彼女は雑誌『明星』に「君(→弟)死にたまふこと勿(なか)れ」という反戦長詩を書いたことでも知られています。全国各地の旧村の鎮守社に建つ忠霊碑は日露戦争での戦死者を祀っていることが多いです。
乃木は明治天皇からの信任が厚く、日露戦争後の1907(明治40)年には皇族や華族の子弟が学ぶ学習院院長に就任し、裕仁親王(ひろひとしんのう→後の昭和天皇)の教育係も務めています。その一方、学習院の学生であった喜連川足利氏(きつれがわあしかがし→古河公方・小弓公方足利氏の直系子孫)の子息は「お前の先祖(→足利尊氏)は逆賊だ」と、院長の乃木に開口一番に言われて面食らったと回顧録で述べています。
1912(明治45)年7月30日に明治天皇が死去し、同(大正元)年9月13日に明治天皇の大葬の日の朝8時頃に、乃木は妻の静子とともに自刃(→殉死)しました。ただ、乃木は夫人宛に遺書を書いているので夫人が存命することが前提であったのかもしれません。
乃木の死は欧米の新聞でも大きく報道され、国内の文学界にも反響を与えました。夏目漱石(なつめそうせき)は『こころ』を、森鷗外(もりおうがい)は『興津弥五右衛門の遺書』を著して乃木夫妻の殉死を賞賛した一方、乃木の教育方針に批判的であった白樺派の志賀直哉(しがなおや)や芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)などの若者は、乃木の殉死を「前近代的行為」として冷笑し、批判的な態度をとっています。
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乃木神社の創建
乃木の死去を受けて、乃木の忠誠心を評価する国民や軍人の呼びかけで、乃木神社の建立、乃木邸の保存、乃木邸前の「幽霊坂」と呼ばれていた新坂を「乃木坂(のぎざか)」と改称することなどが決まり、東京府(→現在の東京都)・京都府・山口県・栃木県・北海道などに乃木神社が建立され、韓国併合後には朝鮮半島にも朝鮮乃木神社が造られました。訪問した東京都港区赤坂の乃木神社は、関東大震災の2カ月後の1923(大正12)年11月1日に創建されましたが、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年5月の帝都空襲(→山手空襲)で社殿が焼失しました。現在の神明造(しんめいづくり)の本殿は昭和時代後期の1962(昭和37)年に祭神50年祭に合わせて本殿・拝殿・幣殿が再建されたときのものです。
【乃木神社の鳥居周辺】










【乃木神社の拝殿・本殿】














【乃木神社の境内】














【乃木神社の参集殿】











【赤坂王子稲荷神社】













【正松神社】

陸軍軍人としてけっこうやらかしている乃木希典からどんな御利益をいただけるのか、私としてはそこが気になります。もう一つ気になるのは祭神として全国の乃木神社に祀られていますが、すぐ近くの青山霊園に乃木希典の墓があり、靖國神社にも2人の息子とともに合祀されています。彼はいったいどこにいるのでしょう。
↓↓だいぶ昔に書いた夏目漱石『こころ』について


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コメント
Re: 日露戦争について
コメントありがとうございます。質問は歓迎です。
日清戦争は戦死者1417人に対して病死者1万1894人(→ビタミンB1不足による脚気やコレラ菌によるクラスター)なのですが、その多くは清軍との戦闘ではなく下関条約で獲得した台湾においてです。日露戦争でも戦死者以外に病死者は多かったのですが、「征露丸」(→現在の正露丸)など医薬品が開発されています。いずれにせよ異国の地で家族に見守られることなく亡くなった兵士は無念だったことでしょう。
ご質問にある日清戦争に比べて日露戦争の戦死者が多いのは、ロシア軍の兵力・装備・練度が清国のそれよりも優れていたこともありますが、陸軍の戦死者に限っていえば、日露戦争は日本軍もロシア軍も「機関銃」を本格的に実戦使用した世界史的な戦争であったことが挙げられます。特に機関銃を配備したコンクリート製の旅順要塞や203高地に総攻撃をかけた時に多くの戦死・戦傷者を出しました。戦死者の大半は小銃(→三八式歩兵銃)に銃剣を装着して決死の突撃を行った歩兵で、死因の多くが機関銃などによる貫通銃創(かんつうじゅうそう)という記録が残ります。ただ、日露戦争全体をみると死傷者は日本軍よりもロシア軍のほうが多いため、列強同士の戦争の激しさを示しているといえます。
2022-07-23 14:43 副会長 西住りほ URL 編集
日露戦争について
ありがとうございました
また質問
資料集に日清戦争と日露戦争の表
日露戦争は戦死者
どうしてなんでしょうか
2022-07-23 12:35 ミスミ URL 編集