旧近衛鎮台砲兵之墓(東京都港区)を訪問しました
旧近衛鎮台砲兵之墓は、明治時代前期の1878(明治11)年8月23日夜に起きた竹橋事件の殉難者(→56名が銃殺刑)を埋葬した合葬墓と供養塔で、青山霊園(→東京都港区南青山2丁目)の端にあります。青山霊園には大久保利通(→紀尾井坂の変で暗殺された明治時代初期の最高権力者)、小村寿太郎(→ポーツマス条約の締結や関税自主権を回復させた明治時代の外務大臣)、加藤友三郎(→大正時代の内閣総理大臣・海軍大臣)、乃木希典(→日露戦争で旅順を攻略した明治時代の陸軍軍人)、斎藤茂吉(→精神科医、国語の教科書の近代短歌でお馴染み)などの墓もあり、大久保利通・小村寿太郎・加藤友三郎の墓は旧近衛鎮台砲兵之墓から駅に戻る途中にあったのでお参りしてきました。


































ー竹橋事件とはー
竹橋事件は、明治時代前期の1878(明治11)年8月23日夜、天皇を護衛する近衛砲兵大隊を主力に、東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二連隊の同調者を交えて、将校・下士官・兵士300人余りが待遇改善やその他の要求を掲げて蜂起し、竹橋兵舎(→東京都千代田区北の丸公園)から仮皇居となっていた赤坂離宮(→東京都港区)に迫りました。日本陸軍史上唯一となる陸軍同士が武力衝突した反乱です。近衛鎮台砲兵らの反乱は短時間で鎮圧され、2カ月後に、関係者の取り調べも終わらないうちに軍法会議(→軍事裁判)で53名に死刑判決が出され、即日、深川越中島(→東京都江東区)の練習場で銃殺刑が執行されました。処刑された兵士の平均年齢は24歳でした。

広瀬喜市 (栃木県出身・平民 享年25) (写真提供: 岩波現代文庫)
青山霊園の旧近衛鎮台砲兵之墓には、『火はわが胸中にあり ー忘れられた近衛兵士の叛乱竹橋事件―』を著した澤地久枝氏が建てた鎮魂の石碑があり、碑文には次のように書かれていました。
「……兵士たちは徴兵によって陸軍にとられ、その多くは、前年の西南戦争の戦火をくぐりぬけて命をひろっている。徴兵制度への根本的疑問、明治維新以後の政治に対する不満が、天皇への直訴をふくむ行動へ兵士を駆りたてていった。生(うま)れ所在の百姓一揆の伝統、のちの自由民権運動につながる志向も、兵士たちをささえる火であったと思われる。……」
蜂起した兵士たちは、近衛砲兵大隊の内山定吾少尉(→無期流刑から後に大赦)の「革命とは、政府の不善なるを、他より起(た)ちて改革するものにて、不良の事にあらず。たとえば王政維新の如きものなり。……故に革命は可(→正義)なり」という言葉に共感し、合言葉や旗印を決めていたといいます。
竹橋事件は、大久保利通暗殺で権力の空白が生まれていた明治政府に与えた衝撃は大きく、事件は無知な兵士たちが起こした暴動として歪曲化され、真相は覆い隠されました。事件以後、参謀本部の政府からの独立、西周(にしあまね)起草の「軍人勅諭」の制定など、絶対天皇制の軍隊(→皇軍)づくりが急速に進められていきました。
【旧近衛鎮台砲兵之墓】







【澤地久枝氏による石碑】


【竹橋事件の説明版】


**********************
【大久保利通の墓】
明治時代初期の最高権力者の墓なのでさぞ立派な墓なのだろうと思っていました。行って驚いたことは、燈籠は崩れ落ち、献花は枯れ果て、鳥居には蜘蛛の巣が張っている有様でした。内務卿として明治政府の中枢にいた権力者の墓の荒廃ぶりに、寂寥感を感じました。私財を投じて殖産興業を推進し、第1回内国勧業博覧会を主宰したことや、佐賀の乱や西南戦争といった士族の反乱を迅速に平定した政治手腕は大久保利通のリーダーシップがあってこそだと思います。













【小村寿太郎の墓】






【加藤友三郎の墓】



【斎藤茂吉の短歌】
中学校や高校の国語(現代文)の教科書で近代短歌を学習すると、必ず斎藤茂吉(1882年~1953年)の短歌が掲載されています。小村寿太郎や加藤友三郎の墓よりも斎藤茂吉の墓にお参りしたかったのですが、あまりに暑すぎて探すのを断念しました。なので、彼の代表的な短歌を3首ご紹介いたします。
みちのくの 母のいのちを一目(ひとめ)見ん 一目(ひとめ)みんとぞ ただにいそげる
→母が重病という知らせを聞き、東京から故郷の山形へ向かった時の歌です。「一目見ん」の繰り返しに切迫感があり、母親への愛情を感じます。「みちのく」とは今の東北地方のことです。
死に近き 母に添寝(そいね)のしんしんと 遠田(とおだ)のかはづ(かわず) 天に聞(きこ)ゆる
→死が近い母のそばで寝ているとカエルの声が遠くから聞こえてくる、という歌です。深い静けさの中に母親への愛情を感じます。
のど赤き 玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐ(い)て 足乳根(たらちね)の母は 死にたまふ(たもう)なり
→亡くなってしまった母親を見守るように2羽のツバメが来ていると詠んだ歌です。「足乳根(たらちね)」は母に掛かる枕詞(まくらことば)です。死の厳粛さと母親への愛情と感謝が伝わってきます。


スポンサーサイト

コメント
ありがとうございます
軍人の命の価値は軽い
上の命令は天皇の命令
軍人勅諭、すごくよく分かりました
本当にありがとうございます
罪深いフレーズ
2022-07-25 13:03 ミスミ URL 編集
Re: 軍人勅諭について
コメントありがとうございます。質問は歓迎です。
「軍人勅諭」には、「凡(およそ)軍人には上(かみ)元帥より下(しも)一卒に至るまで其間(そのあいだ)に官職の階級ありて統属するのみならず同列同級とても停年に新旧あれば新任の者は旧人の者に服従すべきものぞ。下級の者は上官の命を承(うけたまわ)ることは実は直(ただ)ちに朕(ちん→天皇の一人称)が命(めい)を承る義なりと心得よ」というフレーズがあり、上官の命令は即天皇の命令とされ、下級兵は上長への盲従を強いるように記されています。
また、「只々(ただただ)一途(いちず)に己が本分の忠節を守り義は山嶽(さんがく)よりも重く死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ」とも書かれています。要するに「天皇に忠節を尽くす道は、大きな山よりも重く、天皇の為に死ぬことはおおとりの羽(→価値がないものの比喩)よりも軽いと心得よ」と、天皇自身が命令(→勅諭)している訳です。起草したのは西周(にしあまね)という旧幕臣ですが罪深いフレーズです。
太平洋戦争末期になるとこの延長線上に特攻作戦があり、戦場でむごたらしく死ぬことを「散華(さんげ)」といい、部隊全員が全滅することを「玉砕(ぎょくさい)」と呼び、とにかく戦場で死ぬことは「悠久(ゆうきゅう)の大義に生きる」という美名で飾り、若者を死地へと追い込むために利用されました。
2022-07-25 11:37 副会長 西住りほ URL 編集
軍人勅諭について
軍人勅諭とは用語集に竹橋事件
結局、軍人勅諭とは何なのでしょうか
2022-07-25 09:00 ミスミ URL 編集