四郎作古戦場・鳥居畑古戦場(山梨県甲州市)を訪問しました
「四郎作(しろうづくり)古戦場」と「鳥居畑古戦場」は、山梨県甲州市大和町田野にある武田勝頼公一族が自害する「時間かせぎ」のために勝頼公に従った忠臣たちが最後の抵抗を試みた古戦場跡です。1582(天正10)年3月11日午前10時頃、天目山 捿雲寺(→山梨県甲州市大和町木賊)方面を辻弥兵衛と地下人の一揆と織田方に寝返った甘利左衛門尉・大熊備前守・秋山摂津守らに塞がれて、田野村で進退窮まった勝頼公一行の前に、ついに織田軍の先方滝川一益・河尻秀隆の軍勢が鶴瀬から姿を現しました。
甲斐武田氏最期の戦いとなる田野合戦(→いわゆる天目山の戦い)は、『甲陽軍鑑』『甲乱記』『信長公記』『理慶尼記』『三河物語』など、どれもこれも戦闘記録が異なり、武田勝頼公らの最期がどうであったのかは今となっては確認のしようがありません。基本的に軍記物語は栄枯盛衰・諸行無常をテーマとしていますので、滅びの美学、滅亡する側の哀れさや奮戦ぶりを強調して様々なやりとり(→作者の主観と想像)を描くお約束がありますが、兵力差や疲労度・戦意を考えると武田方がどれだけ抵抗できたのかは推して知れるかもしれません。

(画像: NHK)
「四郎作古戦場」の「四郎作(しろうづくり)」は「城作り」が転訛したものだと言われています。田野合戦の前日に主君の危機と駆けつけた小宮山友晴(ともはる)らが急ごしらえの陣城(→防御陣地)を作ったのでしょう。
日川(にっかわ)を渡ると「鳥居畑古戦場」の石碑が建っています。土屋昌恒(まさつね)、安西伊賀守、小山田式部丞(しきぶのじょう)、秋山源三、秋山紀伊守らが奮戦し、勝頼公らの自害の時間を稼いだ場所と伝わります。
さらに土屋昌恒には、天目山 捿雲寺方面から押し寄せる地下人や織田兵を隘路(あいろ)で防ぎ、片手で斬りまくったと伝わる「土屋惣蔵片手切」の史跡も残されています。片手切の伝説はともかく土屋昌恒が弓矢で織田方を悩ませたことが『信長公記』にも特記され、伝え聞いた徳川家康からも賞賛されています。「土屋惣蔵片手切」についてはすごく簡素ですが明日ご紹介いたします。

(画像: NHK)
北条夫人の様子
天目山捿雲寺へ向かうことを断念した勝頼公は、北条夫人にもう一度小田原への帰国を説得したようです。しかし、彼女は駒飼宿でのやりとりと同じく勝頼公と死した後も極楽浄土でともに身を寄せ合う(→一緒にいる)という強い信念があるためこの申し出も断り、付家臣4名(→輿入れの際に北条氏が付けた警固役)を呼び、早雲寺(→伊勢宗瑞)殿以来の弓矢の家に生まれた私が、情けない最期を遂げたとされては恥辱として、付家臣4名に小田原に落ちのびて自分の最期の様子を伝えて欲しいと求めたといいます。
付家臣のうち、筆頭の剣持但馬守は全員が帰国したら小田原への聞こえも悪いと考え、妻子を多の3人に託して自身は田野に残り彼女に殉じました。残りの3名は命令に従い小田原に向かったとされ、『甲乱記』の作者もこれに同行したものと推察されます。『甲乱記』は武田氏滅亡の5ヶ月後の同年8月に小田原で著されたとされますので、記事には北条氏の視点(≒検閲)が少なからず反映されているものと思われます。
一方、武田一族の理慶尼が著した『理慶尼記』には、最期の時が近づくと北条夫人が次の二首を詠じて故郷への便りとしたと記されています。
かへる雁(かり) 頼む疎隔(そかく)の言(こと)の葉を もちて相模の 国府(こふ)におとせよ
(帰る雁 頼む疎隔の言の葉を 持ちて相模の 国府に落とせよ)
→相模の方角に飛んでいく雁よ、私の別れの言葉も一緒に小田原に持ち帰ってください。
ねにたてて さそなおしまん ちる花の 色をつらぬる 枝の鶯(うぐいす)
(音に立てて さぞな惜しまん 散る花の 色をつらぬる 枝の鶯)
→私の死を知ったら、兄弟姉妹は声をあげて嘆かれることでしょう。
実際、翌年に兄の北条氏規(うじのり)高野山における北条氏菩提所高室院に北条夫人の供養を依頼し、「桂林院殿本渓宗光」という戒名を付してもらい、さらに日牌供養としての金子(きんす)を送っています。彼女が「桂林院殿」と呼ばれるのはこの戒名が由来です。武田氏と北条氏は御館の乱(→上杉謙信没後の上杉氏の内訌)以降、関係が悪化し、ついに戦争状態となりましたが、若くして亡くなった異母妹を北条家の兄弟姉妹は悼んだのでしょう。

(画像: NHK・一部加工)
北条夫人に付き従ってきた侍女たちも自害の準備す際に、次のように詠じたといいます。
咲くときは 数にもいらぬ 花なれど ちるにはもれぬ 春の暮(くれ)かな
(咲く時は 数にも入らぬ 花なれど 散るには漏れぬ 春の暮れかな)
実際に理慶尼が田野合戦にまで同行していたとは考えられませんので、このやりとりは全て理慶尼が彼女たちの心情を代弁して記したものだと思われます。戦国時代の女性の記録はほとんど残されない中で、北条夫人は恵林寺高僧の快川紹喜から「芝蘭」「甲州淑女之君」と称えられ、『理慶尼記』に彼女の言動や和歌が記されることで、14歳(『甲乱記』には13歳となる)で嫁ぎ19歳で亡くなるまで武田勝頼公の正室としての足跡が見れることは理慶尼のおかげかもしれません。
↓↓理慶尼と大膳寺について
【四郎作古戦場】



【鳥居畑古戦場】






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