土屋惣蔵片手切(山梨県甲州市)を訪問しました
1582(天正10)年3月11日午前10時頃、天目山 捿雲寺(→山梨県甲州市大和町木賊)方面を辻弥兵衛と地下人の一揆と織田方に寝返った甘利左衛門尉・大熊備前守・秋山摂津守らに塞がれて、田野村で進退窮まった勝頼公一行の前に、ついに織田軍の先方滝川一益・河尻秀隆の軍勢が鶴瀬から姿を現しました。





田野合戦の戦場には、小宮山友晴らが陣城(→防御陣地)を構築した「城作り」が転訛した「四郎作(しろうづくり)古戦場」や、土屋昌恒(まさつね)・安西伊賀守・小山田式部丞(しきぶのじょう)・秋山源三・秋山紀伊守らが奮戦し、勝頼公らの自害の時間を稼いだと伝わる「鳥居畑古戦場」の石碑が残ります。
さらに土屋昌恒は、天目山 捿雲寺方面から押し寄せる地下人や織田兵を隘路(あいろ)で防ぎ、片手で斬りまくったと伝わる「土屋惣蔵片手切」などの史跡も残されています。片手切の伝説はともかく土屋昌恒が弓矢で織田方を悩ませたことが『信長公記』にも特記されています。
『理慶尼記』には土屋昌恒が5歳になる息子と刺し殺し、夫人と2歳の娘を家来に託して落ちのびさせたと書かれていますが、この逸話は事実ではなく、土屋昌恒の5歳の息子は生きのびて、後に土屋忠直(ただなお)と称し、徳川家康に仕えて上総国久留里藩主(→千葉県君津市)になっています。土屋昌恒の逸話や伝承が多いのは、それだけ実際に戦った織田方の賞賛や、その噂を伝え聞いた地元の人たちに深い感銘を与えたからでしょう。
【土屋惣蔵片手切】







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