江戸城(東京都千代田区)を訪問しました
江戸城(→東京都千代田区千代田)は平安時代中期の11世紀に秩父平氏の江戸重継(しげつぐ)が館を構えたのが始まりとされます。室町時代の1457(康正3/長禄元)年に武蔵国守護の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰・太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築城しました。戦国時代には小田原北条氏が扇谷上杉氏を破って武蔵に進出すると、江戸城は1524(大永4)年に小田原北条氏の2代北条氏綱(うじつな)の支配下に入りました。














































































1590(天正18)年7月に豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、秀吉から関八州移封(→領地替え)を命じられた徳川家康が同年8月に江戸城に入り、徳川氏による本格的な江戸城改修が始まりました。北条氏時代の本丸・二ノ丸に加えて、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸が増築されています。
1603(慶長8)年に徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いて以降は、天下普請(てんかぶしん→全国の諸大名に行わせた城普請や土木工事)による江戸城の拡張と江戸の街造りが行われました。神田山を切り崩して日比谷入江を完全に埋め立て、外堀にあたる河川を工事したり、駿河台を掘削して神田川が造られたのも天下普請によるものです。この結果、本丸・二ノ丸・西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸の周囲16kmの区画を本城(御城)とし、現在の千代田区・港区・新宿区に残る外堀と神田川を総構え(→城の外郭)とする日本最大の城郭に変貌しました。江戸城の東端にあたる隅田川には江戸時代初期には防衛上、橋が架けられていませんでした。
東京メトロや都営地下鉄の駅名(→半蔵門・竹橋・京橋・新橋・浅草橋・小石川・大手町・日本橋・虎ノ門・御成門・桜田門・日比谷・赤坂見附・四ツ谷・市ヶ谷など)からも江戸城の門の名残りを知ることができます。
江戸城が皇居になったと思われている方も多いと思いますが、皇居がある場所は旧江戸城址のごく一部にすぎず、幕府が置かれた本丸に皇居東御苑、大奥(→将軍の妻妾の居所)や大御所(→隠居した将軍)や嫡男が住んだ西の丸に宮内庁と宮殿、徳川御三家(→尾張・紀伊・水戸)の屋敷があった吹上に天皇の御所があります。
【説明版】


【江戸城天守】
徳川家康が築いた慶長度天守、それを壊して2代将軍徳川秀忠が築いた元和度天守、さらにそれを壊して3代将軍徳川家光が築いた寛永度天守の3つの天守が築かれました。14ⅿの天守台の上に高さ45ⅿという20階建てのビルに相当する巨大な寛永度天守は、最新の研究で建造時は漆黒の屋根でしたが経年劣化で緑色(→大坂城・名古屋城と同じ)になったことが判明しました。現存する城で一番高い天守は姫路城の高さ31ⅿですので、江戸城天守の巨大さが分かります。
しかし、4代将軍徳川家綱の時代の1657(明暦3)年に起きた明暦の大火により天守は焼失し、江戸市街の大部分も焼けてしまいました。この火事では、当時の江戸の総人口50万人のうち10万人が亡くなったといわれています。回向院(→東京都墨田区両国)は明暦の大火で亡くなった人の供養のため将軍家綱の命令で建立された浄土宗寺院です。後日、紹介いたします。
焼失後、天守台の石垣は加賀藩主前田氏の寄進で造られ再建計画が立てられましたが、会津藩主保科正之(ほしなまさゆき→徳川家光の異母弟)が被災した江戸の復興を優先させるため天守再建に反対したため、以後、天守は造られず、富士見櫓(ふじみやぐら)が天守の代わりとされました。

寛永度天守「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)


【西ノ丸】
江戸城西ノ丸書院前門は、現在は「皇居二重橋」として有名です。この先は皇居となるため皇宮護衛官や警視庁の警察官が厳重に警備しています。ここは江戸城というよりも皇居感が漂っています。1945(昭和20)年8月15日正午にポツダム宣言受諾を告げる昭和天皇の「玉音放送」を聞いた群衆がここに集まり嘆き悲しむ姿を「演出」させられたのもこの場所になります。

西ノ丸「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)









〖終戦時〗


(写真提供:朝日新聞)
【大手門】
大手堀に面した江戸城の玄関に当たる門で1620(元和6)年に仙台藩主伊達政宗(だてまさむね)らの普請で完成しました。参勤交代で家格の高い大名の登城は大手門が使われました。大手門を入ると江戸城二ノ丸に着きます。高麗門と渡櫓(わたりやぐら)で構成された典型的な桝形(ますがた)型式で、10万石クラスの譜代大名2名が藩士とともに常時警備についていました。かなり厳重です。

大手門「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)




【坂下門】
大手門と同じく江戸城二ノ丸の門の一つになります。1862(文久3)年1月15日に、和宮(かずのみや→孝明天皇の妹)を14代将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁させて公武合体を実現させた老中安藤信正が尊王攘夷派の水戸浪士らに襲撃された「坂下門外の変」が起きた場所としても有名です。

坂下門「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)




【三ノ丸 巽(たつみ)二重櫓】








【桔梗門(内桜田門)】
江戸城の桔梗堀に面した門が桔梗門で「内桜田門」とも呼ばれています。この門を入ると江戸城三ノ丸で、参勤交代などの大名の登城は大手門か内桜田門(桔梗門)と定められていました。現在は皇居の一般参賀などの入城門になっています。

桔梗門・和田倉門・大手門「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)





【外桜田門(桜田門)】
警視庁の目の前にある桜田門は皇居前広場につながる門です。外桜田門とも呼ばれます。1860(安政7)年3月3日に安政の大獄に憤激した尊王攘夷派の水戸浪士17名・薩摩藩士1名が大雪のなか登城する大老(→臨時の最高職)で彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ)を襲撃して殺害した「桜田門外の変」が起きた場所として有名です。

桜田門「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)
























【皇居外苑・皇居前広場】
江戸時代には江戸城西ノ丸下と呼ばれ大名屋敷や馬場・厩舎・橋、現在は埋め立てられた内堀などがありましたが、それらの多くが明治時代に撤去されました。戦後、国民公園として開放されて、広大な芝生と黒松の木を中心とした広場や、巨大な噴水を挙げている和田倉噴水公園(→江戸時代には和田倉門)などがあります。旧江戸城址では最も「何もない空間」ともいえますが、都心でこの解放感は逆に清々しいほどです。

手前側が江戸城西ノ丸下「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)











今回は江戸城二ノ丸・三ノ丸の外周をほんの少し歩いたに過ぎなかったのですが、それでもかなり足が疲れました。とにかく広いというのが率直な感想です。富士見櫓や伏見櫓まで行きたかったのですが、国会議事堂や霞が関の官庁街を見学するために断念しました。次の機会に訪問しようと思います。


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コメント
Re: No title
コメントありがとうございます。
現存する桜田門は関東大震災で損傷を受けてしまったので、その後に復元されたものです。復元されたものですが、4代将軍徳川家綱の時代の1663(寛文3)年に再建された門がもとになっているので外観は当時のままといえます。
2022-07-12 19:03 副会長 西住りほ URL 編集
No title
2022-07-12 12:52 美作守 URL 編集