神田明神(東京都千代田区)を訪問しました
「江戸の総鎮守」として名高い神田明神(→東京都千代田区外神田)は、1868(明治元)年の神仏分離令以降正式には神田神社といい、現在でも東京の中心地である神田・日本橋・秋葉原・丸の内・旧神田市場・豊洲魚市場・108町会の氏神として崇敬を集める東京有数の神社です。









































社伝によると、神田明神は奈良時代の730(天平2)年に出雲一族の真神田臣(まかんだおみ)が武蔵国豊島郡芝崎村(→東京都千代田区大手町)に創建したと伝わります。平安時代前期に平将門の乱(939年~940年)が起こると、討死した将門の首は家来によって持ち帰られ神田明神の近くに埋められました。将門の首が故郷の東国を目指して飛んできて大手町に落ちたという怪伝説を信じる人はよもやいないと思いますが、中世は「穢(けが)れ」の思想と「防疫」の観点から獄門(→さらし首)にかけられた首は関係者に返されて埋葬が許されています。
それから369年後の鎌倉時代後期に、神田明神周辺でたまたま自然災害が頻発します。当時の人々は御霊信仰から「将門の神威(→いわゆる怨霊)」と恐れたため、1309(延慶2)年に時宗(じしゅう)の遊行上人が将門を神として神田明神に合祀しました。御霊信仰とは中世から近世まで普遍的な価値観で、怨みを残して死んだ者の霊(怨霊・御霊)を神として祀ると逆にその加護や利益(りやく)を受けられるという逆転の発想です。
戦国時代になると、神田明神は江戸城を築いた武蔵国守護の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰・太田道灌(おおたどうかん)や、その上杉氏を滅ぼして武蔵国を支配した北条氏綱(うじつな)らによって手厚く保護されました。北条氏滅亡後に関東に入封した徳川家康も神田明神を崇敬し、戦勝祈願をしてから臨んだ1600(慶長5)年9月15日の関ケ原の戦いに勝利し、1603(慶長8)年に征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。9月15日は吉日とされ、徳川将軍家はこの日に神田祭を絶やさず行うように命じています。1616(元和2)に神田明神は江戸城の表鬼門守護の場所に当たる現在地に移転され、もとの場所には将門塚だけが残されました。
江戸時代に造られた社殿は大正時代後期の1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災で焼失しましたが、昭和時代前期の1934(昭和9)年に造られた鉄筋コンクリート製の社殿は太平洋戦争末期の東京大空襲をはじめ何度も行われた帝都空襲にも耐えぬきました。
〖神田神社 祭神〗
・一之宮……大己貴命(おおむなちのみこと)→大黒様・縁結びの神
・二之宮……少彦名命(すくなひこのみこと)→恵比寿様・商売の神
・三之宮……平将門(たいらのまさかど)→御霊信仰より除災厄除の神



























〖末社1 末廣稲荷神社〗
祭神: 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
〖末社2 三宿・金刀比羅社〗
・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)……三宿社の祭神
・大物主神(おおものぬしのかみ)……金刀比羅社の祭神
・金山彦命(かなやまひこのかみ)……金刀比羅社の祭神
・天御中主命(あめのみなかぬしのかみ)…金刀比羅社の祭神
〖末社3 浦安稲荷神社〗
祭神: 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
〖末社4 江戸神社〗
祭神: 建速須佐之男命(すさのおのみこと)


〖末社5 大伝馬町八雲神社〗
祭神: 建速須佐之男命(すさのおのみこと)



〖末社6 小舟町八雲神社〗
祭神: 建速須佐之男命(すさのおのみこと)



〖末社7 水神社(魚河岸水神社)〗
祭神: 弥都波能売命(みずはのめのみこと)



〖神馬「明(あかり)」〗



神馬「明(あかり)」は境内をお散歩中でした。


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