愛親覚羅溥傑仮寓(千葉県千葉市稲毛区)を訪問しました
愛親覚羅溥傑仮寓(千葉市ゆかりの家・いなげ→千葉県千葉市稲毛区稲毛1丁目)のある稲毛は、明治時代中期以降、保養地として多くの文人たちによって海岸線(→現在の国道14号線)の松林を中心に別荘や別邸が建てられました。また、国鉄(現在のJR)稲毛駅・西千葉駅・千葉駅周辺は陸軍施設が多くあり、大正時代後期の1921(大正10)年に京成電鉄の稲毛駅が開業して以降、浅間神社周辺には陸軍関係者や政治家の別荘・別邸も多く建てられました。愛親覚羅溥傑仮寓もその1つです。


































































































愛親覚羅溥傑仮寓はもとは旧武見家住宅といい、昭和時代前期の1937(昭和12)年4月に軍人会館(→現在の九段会館)で結婚式をあげた満州国皇帝・愛親覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の実弟である溥傑(ふけつ)が、半年ほどここに居を構え、妻の浩(ひろ→嵯峨公爵家の娘)との新婚生活を送りました。当時溥傑は陸軍歩兵学校(→千葉県千葉市稲毛区天台)に在学していたため、旧武見家住宅は愛親覚羅溥傑仮寓にうってつけの場所でした。その後、夫婦は同年9月と10月にそれぞれ満州国の首都・新京特別市(→現在の中華人民共和国吉林省長春市)に移っています。
その後、波乱の人生を送る溥傑夫妻ですが、昭和時代末期の1987(昭和62)年に最愛の妻の浩を亡くした溥傑は、1990(平成2)年に再び稲毛を訪れ、新婚当時を偲ぶ詩を残し、その2年後の1994(平成6)年に86年の生涯を終えています。溥傑の遺骨は彼の生前の希望により日中双方に分骨され、日本側の遺骨は山口県下関市の中山神社(→浩の曾祖父の中山忠光を祀る神社)の摂社・愛親覚羅社に妻の浩・長女の彗生(えいせい)とともに納骨されました。
【溥傑夫妻】
皇帝溥儀は愛親覚羅家の帝位安定のため溥傑と日本の皇族との結婚を望みましたが、日本の「皇室典範」の既定で外国人と皇族の結婚は許されていないため、昭和天皇の遠縁にあたる嵯峨浩(さがひろ)が候補の1人となり、数ある見合い写真の中から溥傑自身が嵯峨浩を選びました。






(写真提供: 千葉市ゆかりの家・いなげ)
【愛親覚羅溥傑仮寓(千葉市ゆかりの家・いなげ)】
保養地としての稲毛の歴史を今に伝える貴重な和風別荘建築です。
























【仮寓の庭園】
裏庭には溥傑と浩の二女の福永嫮生(こせい)さんが寄贈した白雲木が植えられています。











【仮寓の居室】
















































【系図類】



【コンクリート製の防空壕】



【溥傑の漢詩】

<漢詩の訳(千葉市ゆかりの家・いなげ)>
過ぎ去った歳月を顧みて再び千葉に来る。世の中はすでに大きく変わっているが、余齢をもって稲毛の旧居を訪ねる。新婚当時は琴瑟相和(きんしつあいわ)して仲が良く、まるで夢のようだった。短い期間ではあったが、想い出すとつい我を忘れてしまうほど幸せだった。
愛しい妻の姿と笑顔は今は何処に。昔のままの建物と庭を見ていると恋しい情が次々と湧いてくる。君と結婚したその日のことが目の前に浮かび、白髪いっぱいになった今にかつての愛の誓いを思い出すにはしのびない。
再び千葉海岸稲毛旧居を訪れ感あり二首を詠む。
歳次庚午仲夏 溥傑
溥傑の流水のような字体はとても美しく、当時から人気が高かったそうです。溥傑は小柄な体つきながら強い精神力の持ち主であり真面目で厳しい陸軍士官学校・陸軍歩兵学校の訓練にも耐え抜いたといいます。同時に心優しい性格であったことも写真からも窺えます。家族想いで兄弟愛はもちろん、妻や娘への手紙が多数現存しています。妻の浩も新婚時代の仮寓に突然訪問してきた女学校の修学旅行生を迎え入れ、一緒に集合写真を撮っている写真が居室に飾られていて、家柄や身分を鼻に掛けることのない温和な夫婦であったことが分かります。


↓↓溥儀と浩が結婚式をあげた軍人会館(現在の九段会館)


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コメント
Re: 満州皇族について
コメントありがとうございます。
実は溥傑は帝族ではないのです。満州国では皇族を帝族と称しましたが、それについて法的規定がなく、皇弟溥傑さえ帝族と認められず嵯峨浩と溥傑は一国民という扱いでした。子のいない溥儀にとって帝族は1人もいなかったのです。溥儀自身も「皇帝」にはなりましたが「皇族」ではありません。皇族はあくまで日本の天皇一族のみに許される特別な称号だったため、厳正に「皇族」と「帝族」、「皇居」と「宮殿」の使い分けがされました。
そもそも関東軍は東北三省を中華民国から分離させ日本の傀儡政権(または国家)を作ることが目的でした。そのため、溥儀以外にも恭親王溥偉(ふい)や孔子の子孫を頭目とする案も検討されていました。それゆえ、天津の日本租界から溥儀を連れ出す際に万一中国軍に発見されて逃げきれなかった場合にはガソリンに火をつけて船もろとも証人(溥儀や側近)を沈めてしまう予定で送迎船にはドラム缶が積み込まれていたほどです。
その一方で、溥儀は日本を頼りきり中華民国に強い反感をもっていたので蔣介石とも張学良とも結ぶ心配がないこと、溥儀自身の短気・粗暴・無知といった資質は傀儡政権の頭目として好都合でした。また、関東軍は内蒙古を日本勢力下に取り込むことを企図していたので、内蒙古の諸王侯は清朝とのつながりも深く、同時に漢民族への反発という点からも満州族の溥儀を用いれば蒙古族の支持を集めることが容易になるという利点から溥儀が相対的に関東軍にとって利用価値が高かったといえます。
満州国が清朝の復辟でないことを関東軍が強調したのは、満州国はあくまで日本の傀儡国家にすぎないこと、清朝復辟は辛亥革命の否定につながり中国人民全体との溝を深める懸念が挙げられます。満州皇帝と清朝皇帝では政治的意味合いも国際的理解も全く異なるものだったのです。
2022-07-30 18:36 副会長 西住りほ URL 編集
満州皇族について
2022-07-30 11:31 樅の木 URL 編集
ありがとうございました
満州国は植民地ではなかったのですね、、
とても勉強になりました
溥傑さんがなぜ日本人と結婚したのかも、
背景とかも知れて勉強になりました
2022-07-13 11:50 えまみ URL 編集
Re: ありがとうございます
コメントありがとうございます。質問は歓迎します。少々長くなります。
満州国は満州事変ののち関東軍主導で建国されましたが、関東軍の目的は満州に持つ日本の権益(→権利と利益)を守るため満州を中華民国(→蔣介石政権)から切り離すことにあり、万里の長城以北に中華民国とは別の独立国家を作ることでした。なので満州国は日本の植民地としてではなく、王道楽土・五族協和を掲げた独立国として誕生しました。独立国なので溥儀が執政(→1934年から皇帝)に就任し、内閣にあたる国務院総理や国務会議の部長は全て満州人が任命されました。総人口約4320万人のうち約3885万人(94%)が満州人と漢人で、日本人は植民地の朝鮮人・台湾人を含めて約212万人(5%)に過ぎません。
もっとも1932(昭和12)年9月に結ばれた日満議定書によって満州国の国防・治安維持は全て関東軍に委託され、国務会議の主導権は日本人の次長が握ることになりました。その結果、満州国は日本の傀儡国家になりましたが、溥儀自身が「(満州国は)日本帝国と協力同心」と建国宣言で述べ、皇帝就任の際にも「朕、日本天皇陛下と精神一体の如し」と宣言して、満州皇帝が日本天皇の下位に立つことを受け入れています。それゆえ「天皇の御名代」とされた関東軍司令官は満州国大使と関東庁長官を兼ねて全満州に君臨し、皇帝溥儀に対しても天皇への忠誠が在位の条件だと念を押しています。
溥儀が溥傑と日本皇族との結婚を望んだのは、天皇の権威によって満州皇帝としての地位の保全を図りたかったからだと思います。一方、関東軍は日本語が堪能で日本留学で日本文化への理解も深い溥傑に着目し、溥傑と嵯峨浩の結婚により、男子が誕生すれば満州国の帝位継承を定めた法律により、世継ぎのいない溥儀の次代は日本人の血を引く男子が満州皇帝となりました。溥儀がなりふり構わず天皇の権威にすがったのは日本人官吏や関東軍司令官への牽制もあったでしょうが、後継者問題も大きかったといえます。
2022-07-13 01:48 副会長 西住りほ URL 編集
ありがとうございます
溥傑さんの留学理由がよく分かりました
もう一つ質問なのですが、、、
学校で満州国は日本の植民地だったと習ったのですが、
植民地なのにどうして皇帝がいるのでしょうか
あと、どうして日本人との結婚を認めたのでしょうか
2022-07-12 21:47 えまみ URL 編集
Re: 初めて知りました
コメントありがとうございます。
溥傑が日本に留学したのは本人の日本文化への憧憬もありますが、兄ある溥儀の意思が働いています。清朝の復辟(→皇帝として復位)を果たすため、溥儀は日本に接近し、その軍事力に期待しました。そのため溥傑と皇后(→婉容)の実弟(→潤麒)に日本語を学ばせて共に来日させています。溥傑は1929(昭和4)年に学習院高等科に入り、1933(昭和8)年3月に卒業した後も、同年9月に陸軍士官学校に入学しました。この間に日本は満州事変を起こして1932(昭和7)年3月に満州国を建国しています。1935(昭和10)年帰国して満州国陸軍に入隊した溥傑は、溥儀の意向で再び来日して陸軍歩兵学校に入学しています。溥儀は溥傑と日本皇族を結婚させたいという意向を持っていたのでその根回しもあったものと推察されます。もちろん、皇帝を守る満州国軍の指揮官としての能力向上も期待していたと思われます。
2022-07-12 18:50 副会長 西住りほ URL 編集
初めて知りました
どうして日本の陸軍学校に留学していたのですか
2022-07-12 12:41 えまみ URL 編集