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遊就館(東京都千代田区)を訪問しました

遊就館(→東京都千代田区九段北)は、靖國神社の境内にある戦争博物館ともいえる施設です。「遊就」とは中国の古典『荀子』勧学篇「君子は居るに必ず郷を擇(えら)び、遊ぶに必ず士に就く」から「遊」「就」が選ばれたものです。本来は高潔な人に交わり学ぶという意味ですが、近代日本(→大日本帝国)が経験した戦争によって命を失った戦没者(→英霊と呼ばれる)の遺徳に触れ、学びの場とするという願いが込められていると思います。

展示されている特攻隊員の遺書からは、本心から天皇陛下万歳と叫んで「名誉の戦死」を遂げた者など、ほとんどいなかったことも学べます。遺書のほとんどが両親や兄弟姉妹、妻、婚約者に宛てた手紙です。彼らが命を捧げてまで守ろうとしたものは天皇や国家よりも大切なものでした。それは家族です。彼らは軍から支給された甘味や砂糖などの「贅沢品」をほとんど口にせず、故郷の家族に手紙を添えて仕送りしていました。配給が滞って困窮する家族に食糧を送りたいがために軍に志願した大学生もいました。遊就館では遺品や遺書にしっかり向き合うとそういうことも学べます。

ゼロ戦追加0

館内には戦没者の遺書や遺影などの他、明治時代前期の1882(明治15)年に武器陳列所として開館して以来の、10万点に及ぶ収蔵品が保存・展示されています。その中には絵画や美術品、中世の武具甲冑、刀剣、戊辰戦争における旧幕府軍や新政府軍が使用した銃火器、帝国陸海軍の兵器や装備品なども数多く含まれています。
なお、各階の展示室は写真撮影が禁止となっており、玄関ホールと大展示室にある復元された戦車や航空機、軍艦模型などのみが写真撮影が許可されています。私は係の人にお願いして特別に西住小次郎大尉の胸像や遺品などを撮らせていただきました。


【遊就館】
遊就館

薩摩藩の青銅製大砲
薩摩藩の青銅製大砲


【1階玄関ホール】
「三菱零式艦上戦闘機52型」
ゼロ戦52型1

ゼロ戦52型2

ゼロ戦52型3

ゼロ戦52型4

ゼロ戦52型5

ゼロ戦追加2

ゼロ戦の機銃

【泰緬鉄道(たいめんてつどう)】
泰緬鉄道1

泰緬鉄道2

泰緬鉄道3

泰緬鉄道4

泰緬鉄道5

泰緬鉄道6

【八九式十五糎加農砲(はちきゅうしき じゅうごせんち かのんほう)】
野砲1

野砲2

野砲6

【九六式十五糎榴弾砲(きゅうろくしき じゅうごせんち りゅうだんほう)】
野砲3

野砲4

野砲5

【芝辻砲(しばつじほう)】
大砲1

大砲2

【仏郎機砲(ふらんきほう)】
大砲3

大砲4

【兵士の像】
兵士像1

兵士像2


【2階エリア】
「近代史を学ぶゾーン➀ (明治維新~西南戦争)」

展示室1「武人のこころ」
元帥刀を中心に著名な和歌が複数展示されています。
元帥刀

和歌

展示室2「日本の武の歴史」
靖國神社が収蔵している古代から近世までの刀剣・甲冑などを展示しています。
大鎧

展示室3「明治維新」
幕末から戊辰戦争に至るまでの史料や資料が展示されています。

展示室4「西南戦争」
明治時代前期の1877(明治10)年2月~9月に起きた西南戦争に関する展示品です。西郷軍が使用した旧式の銃火器と政府軍が使用した最新の銃火器や軍装などが展示されています。熊本城攻防戦の写真やパネルがリアルです。

展示室5「靖國神社の創祀」
1869(明治2)年6月29日、戊辰戦争の官軍戦死者を祀った「招魂社」の創立に至る靖國神社の歴史についての展示品です。

「近代史を学ぶゾーン➁ (日清戦争~日露戦争)」
展示室6「日清戦争」
1894(明治27)年7月~1895(明治28)年4月に起きた日清戦争に関する展示品です。近代日本が初めて戦った本格的な対外戦争で、写真や映像・パネルが豊富に展示されています。清国から捕獲した要塞砲や戦死者の遺品なども展示されています。

展示室7「日露戦争パノラマ館」
日清戦争後におきた1895(明治28)年4月の三国干渉の様子や、1900(明治33)年の北清事変から1902(明治35)年の日英同盟締結までの国際関係に関する展示や、1904(明治37)年2月~1905(明治38)年9月に起きた日露戦争に関する大規模な展示がなされています。開戦から日本海海戦で日本海軍が圧勝するまでのパノラマ映像(12分間)を見ることもできます。

展示室8「第一次世界大戦から満州事変」
大正時代の1914(大正3)年7月~1918(大正7)年11月まで主にヨーロッパが戦場となった第一次世界大戦と、日英同盟を名目に日本が連合軍として参戦して戦勝国となり中国大陸に進出していった展示と、昭和時代の1931(昭和6)年に満州事変が勃発し、満州国を建国したことなどが詳しく展示されています。

特別陳列室
宮中(→皇室)から寄贈された宝物(ほうもつ)や太政官(→明治政府)が発行した命令文書などが展示されています。皇室と靖國神社の関係を知ることができます。

展示室9「招魂齋庭(しょうこんさいてい)
中国大陸での戦闘が激しさを増し、戦死者が増えてくると国は戦没者を「英霊」と呼んで靖國神社の本殿に祀る「招魂式」を行いました。その様子が展示されています。

展示室10「支那事変(しなじへん)
1937(昭和12)年7月~1945(昭和20)年8月まで続いた日中戦争の当時の呼び方です。昭和12年7月7日の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)に始まる日中戦争と、満州国(→日本軍が国防を担う)とモンゴル人民共和国(→ソ連軍が国防を担う)との国境紛争から始まったノモンハン事件などに関する史料や資料の展示です。
軍部による最初の「公式軍神」となった西住小次郎大尉(にしずみこじろう→戦車隊長)に関する展示品は史料が豊富で見ごたえがありました。特別に写真撮影も許可していただきました。

西住小次郎1

西住小次郎2

西住小次郎3

西住小次郎4

西住小次郎5

西住小次郎7

西住小次郎6

西住小次郎8

西住小次郎9

西住小次郎10


【1階エリア】
「近代史を学ぶゾーン③ (大東亜戦争)」
1941(昭和16年)12月8日から1945(昭和20)年9月2日まで続いた太平洋戦争の当時の呼び方です。一般的に昭和20年8月15日が終戦の日として政府も式典を行っておりますが、樺太や千島列島では8月18日以降にソ連軍が本格的な攻撃をしてきて日本軍守備隊と激しく交戦しています。北方領土が不法占拠されたのもこの時期です。占守島(しゅむしゅとう)の戦いではソ連軍は日本軍より遥かに多い犠牲者を出しています。

展示室11「大東亜戦争1」
第二次世界大戦直前の国際情勢、アメリカとの戦争を避けるために行われた日米交渉の展示などがメインです。日独伊三国同盟ハル=ノートなど、大学受験を日本史で受験する高校生には見てもらいたい展示です。冗談抜きで山川出版者の日本史資料集よりもはるかに分かりやすくまとめられています。

展示室12「大東亜戦争2」
海軍による真珠湾攻撃及び陸軍によるマレー半島上陸作戦など、太平洋戦争開戦時の日本軍の進攻作戦に関する所蔵品が展示されています。

展示室13「大東亜戦争3」
ミッドウェー海戦をはじめ、攻防の転換点となるソロモン海戦ガダルカナル島の戦い、その後のサイパン島の戦いやインパール作戦などの守勢作戦、1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦から始まる特攻作戦についての展示がされています。写真やパノラマ映像の他、遺品が数多く展示されています。

展示14「大東亜戦争4」
1945(昭和20)年2月~3月に行われた硫黄島の戦い、同年4月~6月の沖縄戦、日本列島全体が無差別爆撃された空襲の実態などが展示されています。特に沖縄戦に関する展示は日本人としてきちんと知っておくべき内容だと思われます。

展示15「大東亜戦争5」
1945(昭和20)年8月15日の終戦をめぐる鈴木貫太郎内閣と陸軍の主戦派の争いや、玉音放送を阻止しようとする陸軍の叛乱計画、戦後のアジア諸国の独立などに関する展示がされています。


***************
1階の大展示室は写真撮影が自由なエリアです。

「ロケット特攻機 桜花11型」
桜花2

桜花1

桜花3

桜花4

桜花5

桜花追加

一式陸攻と桜花


「艦上爆撃機 彗星(すいせい)11型」
彗星7

彗星6

彗星6

彗星5

彗星9

彗星8

彗星1

彗星2

彗星10


「九七式中戦車」
チハタン1

チハタン3

チハタン4

チハタン5

チハタン2

チハタン6

チハタン7

チハタン8

チハタン9

チハタン10


「人間魚雷 回天(かいてん)」
回天1

回天追加

回天2

回天3

回天4

回天5

回天6


「水上特攻兵器 震洋(しんよう)」
震洋0

震洋1

震洋2


「特殊潜航艇 海龍(かいりゅう)」
水上特攻1

水上特攻2

「四一式山砲(よんいちしきさんぽう)」
野砲その2

野砲その2


「戦艦 大和(やまと)」
大和1

大和2


「戦艦 武蔵(むさし)」
武蔵1

武蔵2

武蔵3

武蔵4


「航空母艦 翔鶴(しょうかく)」
翔鶴0

翔鶴1

翔鶴2

翔鶴3

翔鶴4

翔鶴5

翔鶴7

【重巡洋艦 摩耶(まや)】
摩耶1

摩耶2

摩耶3

【重巡洋艦 青葉(あおば)】
青葉

【防空駆逐艦 秋月(あきづき)】
秋月

【戦艦 陸奥(むつ)の副砲】
陸奥副砲1

陸奥副砲2

陸奥副砲4

陸奥副砲3


【その他】
その他6

その他7

その他5

その他4

その他2

その他1


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コメント

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回天について

回天は桜花と違って戦果があったのですね。でも、タンカーを沈めることに命をかけるなんて釣り合わないですね。ご回答ありがとうございました!!!

Re: 回天についても教えて下さい



コメントありがとうございます。質問は歓迎です。

「回天」とは天下の形勢を一変させる、劣勢を挽回するという意味の二字熟語で、回天は「世界一高性能な酸素魚雷」と呼ばれた九三式(61cm)酸素魚雷を母体に改造された特攻兵器です。

ご質問の通り、回天は魚雷本体を改造し、長さ14.75ⅿの本体を人間が操縦し、1度だけ潜望鏡で敵艦の位置を確認したらあとは勘と計器を頼りに30ノット(→時速55.6km)の速度で突っ込み、魚雷の3倍にあたる1.6トンの爆薬を起爆させて敵艦を撃沈する「人間魚雷」です。脱出装置も行進装置もない生還の可能性はゼロに近い水中特攻兵器で、1人用と2人用の2種類ありました。

故郷や家族を守るため、孤独と恐怖と戦い文字通り『必死』の覚悟で自分がやらなければ、という義憤にかられた若い士官や下士官を中心に部隊が編成されました。乗員は志願制の体裁でしたがやがて同調圧力となり「熱望」を強要する雰囲気となりました。中には鋼の意思を貫き非国民と罵られようが、上官に殴られようが「希望セズ」に丸をつけた勇者もいたようです。訓練は徳山湾(→山口県)の大津島があてられ、走行訓練が開始されました。

当初、海軍では貴重な人材を無駄死にさせる特攻兵器に否定的な上層部が多かったのですが、1944(昭和19)年以降になると航空母艦や戦艦・巡洋艦といった主力艦の多くが撃沈され連合艦隊(→日本海軍の機動部隊)が壊滅すると、特攻以外に戦局を挽回する方法はないという考え方が陸海軍上層部の間で蔓延していきました。

次に回天の戦果ですが、1944(昭和19)年11月20日に伊47(→日本海軍の潜水艦)から発射された回天4基のうち1基がウルシー環礁で米軍の油槽艦「ミシシネワ」(2万3000トン)を1隻撃沈しています。「ミシシネワ」には8万5000バレルの重油と9000バレルの軽油と40万5000ガロンの航空燃料を搭載するタンカーですので、回天命中とともに爆発大火災が発生しました。

1945(昭和20)年1月には硫黄島周辺で日本潜水艦部隊から発射された回天と魚雷が米海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」をはじめとする大小26隻を撃沈しています。やがて瀬戸内海までも米軍に抑えられると、徳山湾などの回天基地から直接発射されるようになりました。なお、回天は故障も多かったため出撃できないまま終戦を迎えた乗員もいました。


回天についても教えて下さい

回天についてもお聞きしてよいでしょうか。回天は人間魚雷と書かれていますが、人が乗っていたということでしょうか。反対する人はいなかったのでしょうか。あと回天は戦果を挙げたのでしょうか。質問が多くてすみません。よろしくお願いします。

ありがとうございました

桜花のことがよくわかりました。グライダーだったんですね。翼に木が使われていたこととか初めて知りました。戦果どころかたどり着くこともできなかったって。これを考えた人は心が痛まなかったのだろうか。。。説明ありがとうございました。

Re: 桜花について



コメントありがとうございます。

「桜花11型」は胴体後部に地上推進力800kmの火薬ロケットを3基搭載した一種のグライダーで、その機種に1.2トンの火薬を搭載した人間が操縦する爆弾でした。それゆえ桜花は「人間爆弾」と形容されます。桜花11型が設計されたのは太平洋戦争も敗色濃厚となった1944(昭和19)年のことで、資材不足から両翼は「消耗品」らしく、木製合板張りとなりました。つまり木製骨格のベニヤ張りです。操縦席のある胴体だけは円型断面で軽合金でつくられましたが、ベニヤ張りの両翼では重たいロケット3基と1.2トンの火薬を搭載しているため自力滑走(離陸)は不可能です。そこで母機となる一式陸上攻撃機(一式陸攻)に懸吊され、上空で切り離され、ロケット推進力を利用して敵艦目がけて体当たり攻撃を行うように設計されました。

ただ、母機の一式陸攻は低速のうえ装甲が貧弱だったため、敵戦闘機の格好の餌食となってしまい米軍からは「ワンショットライター」と揶揄されました。桜花11型自体も加速用の火薬ロケット以外に推進力がなく、航続距離も短いため敵前1000m(1Km)の至近距離に到達しなければ発信できませんでした。そのため、敵の迎撃戦闘機に母機もろとも撃墜される公算が大きいことは開発当初から軍部が理解していたほどです。また、母機から切り離して発信したとしても時速800kmを越える速度で突入する重力抵抗で操縦士が失神して操縦不能になる可能性も想定済みでした。それでも桜花11型は実戦に投入されました。人間の命を消耗品と考える人間爆弾に対して、米軍は桜花のコードネームに「BAKA(→馬鹿)」と名付けたほどです。


ご質問の最初にありました桜花の戦果ですが、1945(昭和20)年3月21日に鹿児島県の鹿屋基地を発進し、九州地方に来襲した敵機動部隊の攻撃のため初出撃した野中少佐に率いられた「神雷特別攻撃隊」桜花隊18機は、一式陸攻が敵機動部隊の艦載機群に捕捉され、全機が撃墜され桜花は切り離される前に母機もろとも全滅しました。「1.2トンの爆弾」をむき出しの状態で吊るしているので、被弾したら一式陸攻もひとたまりもなかったことでしょう。

その後、様々な桜花の改良版が試作されましたが、量産されたのは全て桜花11型(→115機を生産)で、出撃は前述のものが最初で最後となったようです。長くなりましたが、戦後の旧陸海軍の調査でも桜花隊があげた戦果はゼロであったと言われています。

桜花について

桜花について知りたいのですが、桜花は敵艦を轟沈させる成果をあげたのでしょうか?調べてもよく分からなかったので教えていただけませんか?あと何で陸攻にぶら下げられているんですか?
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